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嫌々爺日記

日頃の愚痴か、エンタメ作品の感想か……

悪影響を及ぼす物は規制しよう

小児性愛者が性犯罪を犯すと、漫画・アニメの悪影響が取り沙汰される。現に石原慎太郎元都知事閣下なども、漫画やアニメを嫌い、規制を推進した。

 

そうなのだ。漫画・アニメは誰かしらに悪影響を及ぼすのは間違いないのだから、こんなものジャンジャン規制すればいいのだ。漫画やアニメを生き甲斐にする人間が大勢いることから分かる通り、漫画やアニメは強い影響力を持つ。ならば、誰かしらに悪影響だって与えているはずだ。規制せねばなるまい。

ロリ要素のあるもの。エロやバイオレンスの香りがするもの。こういった作品は、全て規制するべきである。小児性愛者を増やし、性犯罪を増やし、傷害、殺人事件を増やす原因になってしまう。もちろん手塚治虫ジブリも例外ではない。『ドラえもん』のしずかちゃん入浴シーン、『サザエさん』のワカメのパンツなども、不健全極まりない。経済効果など知ったことではない。

漫画・アニメは悪影響を及ぼすのだから、規制するべきである。

 

小説ももちろん規制の対象である。文学、文豪、などという高尚ぶった言葉に惑わされてはいけない。谷崎潤一郎など、あんなものただのエロだ。悪影響を及ぼす。漫画・アニメ同様、ロリ要素のあるもの、エロやバイオレンスの香りがするものは、全て規制しなければなるまい。

 

児童書の中にも、悪影響を及ぼす作品は潜んでいる。『かいけつゾロリ』などその最たる例だ。主人公が悪党であり、しかもそれを美化している。子供が不良に憧れ、将来非行に走る要因である。『かいけつゾロリ』シリーズは、絶版にしなければならない。

 

漫画・アニメ、小説とくれば、当然ドラマ・映画規制の対象だ。名作、などという金メッキを剥がせば、ドラマや映画は殆ど全て不健全である。世界的な賞を獲ろうが知ったことではない。ドラマ・映画は、みんな悪影響を及ぼすのだ。規制せねばなるまい。

 

だいたいフィクションなどというものは、現実に対応出来ない者たちの逃げ道に過ぎない。ありもしない世界に感動してどうするのだ。フィクションが豊かになるにつれ、現実は乏しくなっていく。フィクション作品などがあるから、弱い人間が生まれるのだ。

 

忘れてはならないのが、音楽である。音楽の中にも、不健全で悪影響を及ぼすものが多々ある。

ヘヴィメタル、ロックなどは暴力的であり、悪影響を及ぼす。規制の対象だ。ラップ・ヒップホップは不良の文化を助長している。これも規制だ。甘ったるいJ-POPも規制だ。歌なんぞで恋愛を歌うから、若者が歌だけで満足し、少子化が進むのである。

聞いていいのは、インストゥルメンタルだけである。但し、スカなど野蛮で悪影響を及ぼすものは聞いてはいけない。

 

バラエティ番組悪影響を及ぼす。プロが仕事として行う「イジリ」という概念など、子供に通じるはずがない。イジメを助長するだけだ。規制しなければならない。

そもそも、テレビというものが悪影響を及ぼすものなのだ。CMは不愉快であり、ニュース偏向報道ばかり。不健全極まりない。テレビは、スポーツ中継以外全て規制の対象である。

 

いや、スポーツ悪影響を及ぼしている。サッカーなどはもはや、いかに上手く転んで相手からファールを取るかを競うスポーツであり、嘘つきを生む原因だ。サッカーに限らず、スポーツは往々にしてそういう不健全な側面を持っている。やはり、規制しなければなるまい。

 

次に規制しなければならないのはなんだ。何がある。そうだ、煙草がある。

煙草は健康に悪く、歩きタバコも深刻な問題だ。マナーを守って吸っている人間がいようとも、マナーを守れない人間が一人でもいる限り、煙草は悪影響を及ぼす。煙草は、不良文化の入り口でもあり、やはり不健全だ。規制しなければならない。

 

臭いという意味では、香水、柔軟剤、酒、これらは全て悪影響を及ぼす。酒に至っては、酔っ払いのトラブルが頻発しているから、ますます不健全だ。規制せねばなるまい。

 

まだ残っているのは何だ。 どんどん規制しよう。落語、歌舞伎、浄瑠璃、能、狂言、歌劇、演劇……。フィクション文化は根こそぎ規制しよう。どうせ叩けば埃が出るのだ。悪影響を及ぼす要因の一つや二つ、あるに決まっている。

 

もっと言えば、そもそも娯楽などというもの自体が不健全であり、悪影響を及ぼすのだ。権利だ、自由だ、娯楽だ、などと叫ぶ人間が増えたから、日本はどんどん沈没していってるのだ。

汗水流して働き、働き、働き、働く。結婚し、家庭を持ち、友人を持ち、そういった人々との交流だけを楽しみとし、また働いて、また働く。これこそが、人間の健全な姿である。

 

文化も伝統も正論も理屈も、知ったことではない。不健全なものは、不健全なのだ。悪影響を受けて酷い行動をする人間が悪いのではない。悪影響を及ぼす可能性が少しでもあるものを、発信する方が悪いのだ。

人々に悪影響を及ぼし得る不健全なものを完全に規制し、健全な社会を作ることが求められる。個人レベルでの権利や自由・幸福など小さな問題であり、大きな視点で社会を見たときに健全であることが、何よりも大切なのだ。

悪影響を及ぼす物は規制しよう。全て、残らず、完璧に。その先にはきっと、不健全なほど健全な社会が待っているはずだ。

神経質な描線の闇〜エドワード・ゴーリー

僕は、エドワード・ゴーリーという絵本作家のファンだ。何冊も彼の著作を持っているし、原画展にも足を運んだ。

エドワード・ゴーリーは、細い描線を神経質なまでに書き込み、重ねていくことで、闇を浮かび上がる。このとは、文字通り光の加減によって物体に生じる陰影のことでもあり、同時に、人間やこの世界に潜む狂気・恐怖・不条理のことでもある。

 

たとえば『ギャシュリークラムのちびっ子たち または 遠出のあとで』という作品は、A〜Zまでのアルファベットを名前の頭文字に持つ26人の子供達が、それぞれ多種多様な死を遂げる場面を描いている。

だがこの作品は、何か悪いことをした子供達がバツを受けて死んでしまう、といった教訓話ではない。かといって、子供達の死を残虐に描いて愉しむというサディスティックな作品でもない。

ゴーリーはただ単純に、を描いているに過ぎない。過激さや不謹慎な衒いではなく、ひたすら冷たく軽やかに子供達の死を描いているだけなのだ。冷たさと軽さこそが死の本質であり、それを絵本として描くことで、ゴーリー死の不条理=闇を鮮やかに浮かび上がらせたのである。

 

同様にゴーリーは、『不幸な子供』ではタイトルの通り不幸という不条理=闇を、『おぞましい二人』では人を殺す人間の狂気=闇を、『蟲の神』では少女の死という不条理=闇を、『ウエスト・ウイング』では得体の知れない恐怖=闇を、まざまざと浮かび上がらせている。

 

これらの闇は、我々の日常の中に当然のごとく潜んでおり、決して切り離すことは出来ない。だからこそ人々は、ゴーリーの描く絵本に強く惹かれるのである。

じっとり・『人魚伝』

中学三年生のときに『壁』を読んで以来、僕は安部公房のファンなのだが、その最高傑作といえば、砂の女』『箱男そして『人魚伝』のうちのいずれかであろう、と個人的には思う。

 

沈没船の調査をしていた「ぼく」は、船内で美しい人魚と出会う。歯以外は全て緑色の、人間そっくりな人魚。彼女に心奪われた「ぼく」は、彼女と共に暮らしたいという願望を抱き……。

 

エロスホラーの肝は、チラリズムであると僕は思う。全裸の女が明るい照明の下で立っているよりも、薄暗い部屋でスカートの中が見えないギリギリのラインを突いて足を組み替える女の方が、遥かにエロい。怪物が姿を現し主人公を追い掛ける映像よりも、主人公が暗闇の中で身を潜め、周囲の木々が風に揺らされて音を立てている映像の方が、遥かに観ている者の恐怖を駆り立てる。

 

まさに『人魚伝』は、このチラリズムが効いた作品である。人魚との性的交渉を描写したシーンは一切ないにもかかわらず、本作は途轍もなくエロいのだ。じっとりとしたエロスが、作品に備わっているのである。

また本作は、詳細は割愛するが、じっとりとした不安や恐怖を感じさせる、ホラー小説のような趣も併せ持っている。じわりじわりと読者の不安を煽るその展開にも、チラリズムが見え隠れしている(微妙に重複表現ですね、すみません)。

 

乾いた文体や作風の多い安部公房だが、『人魚伝』は、全体的にじっとりとした印象を抱く作品だ。

『人魚伝』の纏う"じっとり"としたエロスや不安感はまるで、じっとりとした人魚の皮膚と呼応しているかのようである。

 

本作へのこれ以上の言及、ストーリー解説は無粋である。『人魚伝』は、新潮社から刊行されている短編集『無関係な死・時の壁』に収録されているので、是非とも購入し、ご自分の目で読んで確かめて頂きたい。

表題作の『時の壁』はイマイチですが、『人魚伝』を読むためだけでも、買う価値アリの一冊です。

愛か狂気か・『ジャズ大名』『セッション』

『ラ・ラ・ランド』を観た。評判は賛否両論に別れているらしく、僕も、ミュージカルだからという理由では片付けられない「細部の曖昧さ」が気になったものの、結論としてはやはり面白かった。

 

僕はチャゼル監督の前作『セッション』も劇場で観たのだが、総合的な面白さでは『ラ・ラ・ランド』が上、一瞬の爆発力では『セッション』が上であった。

『セッション』を観た僕が感情を爆発させたのは、観た方なら分かると思うが、ラスト9分19秒の演奏シーンである。というかまあ、『セッション』の宣伝文句が「ラスト9分19秒--映画史が塗り替えられる」でしたからね。

 

(余談だが、映画にしろ小説にしろ、この「衝撃のラスト」推し、やめて頂きたい。ずっとストレートを打ってきている相手が突然アッパーを浴びせてくるからこそ、脳がクラクラッと揺れ、ノックアウトされるのである。試合前に「3発ストレート放ってからのアッパーがオレの得意技なんすよ」と相手に教えるボクサーが、一体何処にいるというのだ)

 

閑話休題、さて本題。映画『セッション』は、原題を『Whiplash』という。意味は「鞭で打つこと/ギョッとすること」であり、映画を観たあとでは、言い得て妙なタイトルだと唸らされるのだが、これを何故『セッション』という邦題に変えてしまったのだろうか。だってこの映画、全然セッションしていないのだ。

 

若手ジャズドラマー志望・ニーマン君は、名門音大に入学する。彼はJ.K.シモンズ演じる鬼ジャズ先生・フレッチャーから、「うちのバンドへおいで」と誘われ、練習に参加することに。

だが、その練習はまさに地獄。フレッチャーは、ハートマン軍曹も真っ青になるほどのありとあらゆる罵倒を、バンドメンバーに浴びせ続けるのだ。もちろん、初参加のニーマン君もその洗礼をバッチリ受けることとなる。

フレッチャーに「Not My Fuckin' Tempo!」と怒鳴り散らされ、椅子を投げられ、ビンタまでも喰らったニーマン君は、必死で、もう超必死で、それこそ手から血が出てもめげずに、ドラムを叩き続ける。

 

ジャズ関係者、ジャズ愛好家は、こんなものはジャズではない、愛がないと批判している。その通りだ。

『セッション』は、『ジャズ版・巨人の星なのである。「俺の理想のテンポと違う!」とフレッチャーに激怒され、ニーマン君は壊れた玩具のようにドラムを高速で叩き続けるのだが、これは差し詰め星飛雄馬の大リーグボール養成ギプスだ。合理性やリアリティは二の次で、インパクト重視である。「そんなギプスでちゃんと筋肉付くの? もっと効果的な筋トレ方法ないの?」という指摘は無意味であり、高校生がガッチガチのギプスを付けられ、満足にご飯も食べられず苦しむという強烈な絵面にこそ、意味がある。

『セッション』も同様であり、僕のような素人でさえ「そんなアホみたいにドラム叩かなアカンの?」と思ってしまうが、これでいいのだ。J.K.シモンズに怒鳴られた白人の若者ドラマーが、半ベソで狂ったようにドラムを叩く。この絵面こそが面白いのである。

 

 ニーマン君はフレッチャーにその腕を認められていく一方、俗的な価値観を持った親戚からはジャズを軽視され、鬱屈とした気持ちを募らせていく。フレッチャーが自分より下手なドラマーを褒めたことに腹を立て、ニーマン君はますます狂ったようにドラムに打ち込み、ドラムのために恋人とも別れる。そんな頑張りが認められたのか、ニーマン君は次回のコンペティションのメンバーに選ばれる。

だが、迎えたコンペティション当日。会場に向かうニーマン君は交通事故に巻き込まれ、血塗れの大怪我を負ってしまう。ニーマン君はどうにか会場に辿り着き演奏を遂げようとするが、怪我のせいでその演奏は惨憺たるものであった。フレッチャーはニーマン君に「お前は終わりだ」と告げる。ついに堪忍袋の尾が切れたニーマン君はフレッチャーに殴りかかり、退学処分を受けてしまう。

その後ニーマン君は匿名でフレッチャーの体罰を告発し、結果、フレッチャーは音楽学校を追いやられた。

数ヶ月後、穏やかだが物足りない生活を送っていたニーマン君は、ジャズクラブでピアノを弾くフレッチャーに遭遇する。フレッチャーとニーマン君はそこで初めて、酒を酌み交わす。フレッチャーはかつての鬼のような表情とは打って変わり、柔和な態度でニーマン君に語る。

「誰かはわからない密告者のせいで、自分は学校を追いやられてしまった。だが私が学生を殴ったのは、彼らにジャズ界の伝説になってほしいと願っていたからだ」「生ぬるい演奏を上出来だと褒め、彼らの才能を潰すことのほうが悲劇だ」

そしてフレッチャーは、「今度開催される権威あるジャズフェスティバルで自分が指揮棒を振るうこと、そのバンドのドラマーをニーマン君に務めて欲しいと思っていること、曲目、曲順は、ニーマン君在籍時のバンドと同じであること」を告げた。ニーマン君は悩んだ末、この誘いを引き受ける。

振った恋人に「見に来て欲しい」と連絡したニーマン君だったが、彼女には既に新しい恋人がいた。

そしてフェスティバル当日。演奏が始まる寸前、フレッチャーがニーマン君に冷たく言い放つ。

「知ってるぞ、密告者はお前だな」

そして始まった曲は、ニーマン君が聞かされていた「Whiplash」ではなく、「Upswingin'」という全く別の曲だった。ニーマン君は「Upswingin'」の楽譜を持っていない。何とかアドリブで付いていこうとするが、そんなことが出来る筈もなく、ニーマン君は酷いドラムを叩く羽目になる。フェスティバルにはスカウトマンらジャズ関係者が多く集っており、そこでの致命的なミスは、ジャズマン生命の終わりを意味している。

希望を抱いて名門音楽学校に入り、恋人を捨ててまで一流のジャズドラマーを目指したが、挫折し、情熱を失ったニーマン君。今回偶然訪れた再チャンスを掴もうと、新たな希望を抱いたニーマン君。その希望はたった今、無惨にも潰えた。フレッチャーの手によって、故意に。茫然、唖然、呆然。

フレッチャーは、ニーマン君が密告者だと知っていたのだ。フレッチャーはそんなニーマン君が許さず、自分が指揮を振るうステージを台無しにしてまで、彼に復讐をしようとした。そして、その復讐は遂げられた。

ステージを去るニーマン君。舞台袖では、父親が待っていた。「お前はよくやった」と父親に抱き締められるニーマン君。が、突如として彼は踵を返し、ステージへと戻っていく。

そして、ラスト9分19秒が始まる。

戻ってきたニーマンにちらと目を向けたフレッチャーが客席に向かって「次はゆったりした曲を」と告げた瞬間、ニーマンがドラマを叩き始める。ゆったりではなく、猛烈なテンポで炸裂するドラム。目を見張る他の奏者達。フレッチャーはニーマンに近付き、「目玉を抉るぞ!」と激怒するが、ニーマンはスティックでシンバルを叩き付け、それを跳ね除ける。

そしてニーマンの合図によって、演奏が始まる。この瞬間バンドの指揮棒を振るっていたのは、間違いなくニーマンである。曲は、ジャズのスタンダードナンバー「Caravan」。演奏が始まってしまった手前、フレッチャーは指揮をせざるを得なくなるが、「お前を殺す」とニーマンに囁くことは忘れない。

しかし、フレッチャーは演奏の途中で気付く。ニーマンのドラムに狂気が宿っていることを。それに引き摺られ、バンド全体が格別の演奏をしてしまっていることを。ニーマンへの憎しみとニーマンのドラムへの感嘆を同時に抱くフレッチャー。そんなフレッチャーの表情は、いつしか歓喜に満ちたものとなっている。

そして最高の状態のまま、フレッチャーは「Caravan」の演奏を終える。と思いきや、フレッチャーの指揮を無視し、ニーマンはドラムを叩き続ける。ニーマンのドラムソロの始まりである。

恍惚の表情から一転、怪訝な顔でニーマンに近付くフレッチャー。「僕が合図する!」と告げるニーマン。ニーマンを見つめ、フレッチャーは言葉を飲み込む。

ニーマンは、ドラムを叩き続ける。叩く。叩く。叩く。叩く。叩く。叩く。叩く。叩く。観客に対して怒濤のごとく押し寄せるドラムの音。 

フレッチャーはニーマンの目の前で頷きつつ、手振りで指示を出す。あまりにも凄まじいニーマンのドラムによって倒れかけたシンバルを、フレッチャーが無言で素早く立て直す。

そして、ニーマンのドラムが極限まで達した一瞬、スクリーンは無音になり、ニーマンとフレッチャーは目を合わせる。頷くフレッチャー。薄く笑みを浮かべるニーマン。再びスクリーンに音が戻り、ニーマンの鬼気迫るドラムを管楽器が追従し始めた瞬間、スクリーンは暗転し、エンドロールが始まる。

 

先ほど『セッション』は『巨人の星』だと述べたが、同時にスティーブン・キングの名作小説『シャイニング』でもある。
『シャイニング』は、心に多少の闇を抱えた男が、幽霊ホテルと酒によって狂人になっていく過程を描いた、ホラー小説の金字塔だ。

一見真面目なジャズ映画に見える『セッション』も実はジャズ映画ではなく、『シャイニング』同様、一人の青年が狂気の渦に飲み込まれていく過程を描いた映画である。

フレッチャーは、「一流のジャズミュージシャンを輩出するために行き過ぎた指導をしてしまうものの、ジャズのことは愛して止まない、愛に満ちた人物」などではない。ニーマン君を狂気という名の深淵へ引き摺り込む、紛うことなき狂人だ。星一徹よりよっぽど酷い、ホテルに棲みつく幽霊だ。彼にも、「Caravan」の後のドラムソロにも、愛はない。あるのは狂気だけだ。だが、それもいいではないか。ニーマンの最後の笑顔を見ると、そう思わされてしまう。

 

『セッション』のラストの演奏は、狂人だけが到達し、理解することの出来る、狂気に満ちた対話である。

 

一方、真面目なジャズ映画でないように見えて、実はジャズの愉しさを強烈に味わわせる作品もある。「原作・筒井康隆/監督・岡本喜八」の1986年公開映画、ジャズ大名である。

『セッション』の感想に文字数を割きすぎたため、『ジャズ大名』のストーリーや感想は割愛するが、こちらも素晴らしい傑作である。筒井康隆の原作小説を超えている(テーマが音楽である以上やむを得ないが)。

ジャズ大名』のラストシーンも、『セッション』同様、ジャズ演奏である。が、こちらの演奏は愛に満ちている。これはジャズと言えるのか、と思うような楽器や道具が登場するが、そんなことは些細なことである。ジャズ大名』という作品の魂こそ、ジャズなのだ。

 

愛か狂気か。対照的な二作品ですが、お暇なときにでも是非、併せてご覧されたし。

ナンシー関は死にました

「もしナンシー関が生きていたら、ズバッと斬ってくれたのになあ」

昨今のテレビ番組を批判したい人が、しばしば使う言葉である。「小林秀雄が生きていたら……」「淀川長治が生きていたら……」などという意見は目にしないが、「ナンシー関が生きていたら……」という表現はやたらと目にする。

僕はこの「ナンシー関が生きていたら……」があまり好きではない。

 

僕が3歳の頃にナンシー関さんは逝去したため、僕はナンシー関という人の凄さをリアルタイムでは知らない。しかし何冊か著作を読み、独特の切り口、悪意とユーモアに満ちた消しゴム版画、舌鋒鋭い文体など、なるほど凄い人だと思わず唸らされた。

だから、「ナンシー関がもし生きていたら、この芸人、このテレビをどう評価しただろうか」という純粋な興味を抱くのは分かる。ただ、ナンシー関という名前を「自分が気に食わないテレビや芸人、タレントを批判する道具」に使うのは、どうも納得できない。

 

テレビが面白くないと思うなら、自分の力で批判すればいいではないか。

SNSの発達により、今や一億総批評家社会である。自分の意見を、我々一般人も簡単に発信できる世の中なのだ。Twitterやブログで「この番組つまらないなあ。ああ、ナンシー関が生きてたら、ズバッと斬ってくれたのに……」と書き込むくらいなら、「この番組は〇〇だからつまらない」と自分の頭で考えた感想を、自分の言葉で述べればいい。大袈裟かもしれないが、自分の言葉で自分の意見を述べることこそ、人間としての尊厳である。

 

もしもナンシー関が生きてたら、もしもナンシー関が生きてたら、などという意見はもう見飽きた。聞き飽きた。 ナンシー関はもう死んでいる。

「命の授業」という名の実験

1990年7月、大阪府豊能町立東能勢小学校4年生の担任を受け持っていた黒田恭史先生は、「生徒全員で豚を飼い、最終的にその豚を食べることで、食というものを見直そう」と考え、「命の授業」と題して、実際に体重30kgのオス豚をクラスで飼い始めた。生徒達はその豚に「Pちゃん」と名付け、大切に育てることとなった。

生徒達は保護者や学校の協力を得ながら、苦労してPちゃんを育て続けた。休み時間には一緒に遊んだ。5年生の9月頃からはテレビカメラが取材に入るようになった。彼らが6年生になった頃には、Pちゃんは300kgにまで成長していた。

そして、生徒達の卒業が一ヶ月後に迫ったある日、黒田先生は生徒達に言った。

「Pちゃんを食べよう」

だが、3年近く育ててきたPちゃんを実際に食べるのは、生徒達にはなかなか苦しい。そこで生徒達は、話し合いをすることに。

「自分達では食べられない」「食肉センターにも送りたくない」「農場などで飼って貰うのは、お金が掛かるため不可能」となり、生徒達が出した結論は「後輩の新4年生に引き継ぐ」というものだった。

しかし、この結論に異議を唱える保護者達がいた。曰く、「新4年生が卒業するときにまた同じ問題に直面する」「300kgまで成長してしまった豚を4年生にいきなり飼育させるのは危険」

これを受け、再度話し合いが設けられる。様々な意見が出たが、結局「食肉センターに送る」か「下級生に引き継ぐ」かの二択に絞られ、生徒達は決断を迫られた。

生徒達の出した結論は、下級生に引き継いで貰う方向で進め、どうしても無理な場合は食肉センターに持っていく。最後の決定権は黒田先生にあるというものだった。そして黒田先生の出した結論は、「食肉センターに送る」であった。

黒田先生は当時、「どうしてPちゃんを食肉センターに送らねばならないのか」という生徒の問いに、「今はわからない。ごめんね」と答えている。

 そしてお別れの日。食肉センター行きのトラックにPちゃんを乗せるのを手伝う生徒達。抵抗するPちゃん。必死で乗せようとする生徒達。猛然と抵抗するPちゃん。泣き叫ぶ生徒も現れる中、どうにかPちゃんはトラックに乗せられ、食肉センターへと送られていったのであった。

加工されたPちゃん。ある者は笑顔で食べ、ある者は泣きながら食べ、ある者は食べられなかった。

のちに、黒田先生はこの「命の授業」を振り返ってこう言った。

「良かったのか悪かったのか、よくわからないところもあるんですけど、ただひとつだけ言えることは……。一生懸命だったということは言えますね」

その後、この「命の授業」はフジテレビでドキュメンタリーとして放映され、動物愛護映画コンクール、内閣総理大臣賞、ギャラクシー賞などを受賞した。そして黒田先生は、佛教大学専任講師,助教授,准教授,教授を経て、2017年現在,京都教育大学教授を務めている。

 

以上、確認できた範囲で事実を列挙していった。事実誤認は多分ないはずです。

さて、では僕の感想を述べていきます。まあ本稿のタイトルから察しはつくと思いますが、まず始めに、頭おかしいんじゃねえの!?というのが正直なところであります。以下、そう思う理由です。

 

豚肉ランドというサイトによると、食肉用の豚の出荷時期は、生後180日、体重105kgである。他のサイトなども調べてみたが、やはり食用の豚は100kg前後で出荷されている。ところがPちゃんは、3年近く飼育され、300kgまで成長している。これはどういうことなのか。

食肉教育というなら、きちんと計画的に正規の時期に食べるべきだ。何故、300kgに育つまで、3年弱も育てたのだろうか。僕は食肉の専門知識はないため、もしかしたらPちゃんの品種の場合、300kgまで成長させる意味や必要性があったのかもしれない。

ただ、この黒田先生の人格を考えると、ただ単に「命の授業を終えるのは卒業直前の方が盛り上がる」と考えていただけではないか、と思ってしまう。何故ならこの黒田先生は、思いつきで行動し、深く物事を考えられない愚か者だからである。

 

黒田先生は、家畜とペットを混同している。

Pちゃんなどと名前を付けてしまい、休み時間にはその背中に跨って遊んだりすれば、生徒達はPちゃんを「人間が生きるため、食べるために命を頂く家畜」としてではなく、「人間とともに暮らす可愛いペット」として認識してしまう。

もちろん畜産家の中には、家畜に名前をつけている人もいる。しかし、彼らはプロだ。名前を付け、愛情を注いで育てても、家畜をペットとしては認識しない。 だが、小学4〜6年生がその区別を付けられる筈がない。

そんな想像すら、黒田先生は出来ないのである。だから、安易に名前を付けさせてしまう。

 

さらに、生徒達が話し合いの末「下級生にPちゃんを託す」と結論を出せば、それを受け入れる。自分のクラスで勝手に始めた豚の飼育を、「やっぱり可哀想だから食べられない」と生徒達に言われたからといって、無関係の下級生に押し付けようとするのだ。そして保護者から異論が出れば、また生徒達に話し合いをさせる。馬鹿か。自分の頭で考えろ。 

 

そして酷いのが、「どうしてPちゃんを食肉センターに送らねばならないのか」という生徒の問いに、「今はわからない。ごめんね」と答えたことと、のちに振り返って「良かったのか悪かったのか、よくわからないところもあるんですけど、ただひとつだけ言えることは……。一生懸命だったということは言えますね」などと言ったことだ。

わからないならば、生徒にそんな「授業」を行うな。「一生懸命だったということは言えますね」だと? だから何だ? 黒田先生の一生懸命さなど、どうでもいい。豚を飼育して食べるなどということを、小学生相手に、「わからない」まま、教師である自分の中で結論や確固たる信念もないまま、「やってみよう」という軽い気持ちだけでやってしまったことが大問題なのだ。

学校や保護者がこれを何故容認したのか、甚だ疑問でならない。

 

しかも、テレビカメラを入れては駄目だろう。小学生とはいえ、テレビカメラを向けられた状態ではありのままの姿は晒け出さない。本音で語らうのが重要なこの「命の授業」を、テレビカメラで映してもいいと考えた黒田先生の思考がよく分からない。

 

「命の授業」の目的は、「現代人は、加工された肉も元々は生き物だったという実感を抱くことなく、ただの食べ物として食べている。豚肉はパックに入ったお肉。豚という生き物とは結び付かない。それでは命の重みが感じられない。だから皆で豚を飼い、その命を頂くことで、それを実感しよう」というものだった。

だが実際には、「私たちが育てたPちゃんを生かすか殺すか」という問題になってしまった。生徒達は、「動物の命を奪って生きている」「我々が口にする食べ物も生き物であり、我々はその命を頂いている」という普遍的な人間の業を実感するのではなく、「Pちゃん可哀想。Pちゃんは食べたくない」という個人的感情論に陥ってしまった。

当たり前である。こんな思い付きの行き当たりばったりなやり方では、そうなるに決まっている。誰の目にも明らかだ。だが、黒田先生はそれをしてしまった。

 

僕は思う。「命の授業」とは、有名になりたかった黒田恭史氏が、豚と生徒達を使って行った売名実験である、と。

大学四年間でしたいこと

僕は、この春から大学生になる。早っ。怖っ。ということで、大学生の間に読みたい本や漫画、観たい映画、聞きたいCD、行きたい場所などを列挙していきたい。

完全に自分用のメモであり、誰も興味がないだろうとは存じますが、まあアクセス件数が5件/日の過疎ブログゆえ、こんな記事もいいだろうと思い、書いていきます。

余談だが、ブログの文字の色って変えられるんですね。今知りました。ビックリ!

 

1.『百年の孤独を読む。購入済み。文庫版がないんですよね、コレ。ハードカバーのみ。三千円超。高かった。

 

2.文芸評論家・三浦雅士氏の著作を読む。まず名前が格好良い。あと、町田康の『くっすん大黒』という小説の文庫解説がこの人で、なかなか素晴らしい解説だった。しかも、僕が今年受けた某大学の現代文が、これまたこの人の「舞踏」に関する文章だった。惚れ惚れするような名文だった。そのせいで全然解けなかった。多分落ちた。私大に行きます……。

 

3.柄谷行人の著作を読む。高校の現代文の授業やテストで、二回この人の文章に触れた。一度目は夏目漱石の『こころ』を、二度目は菊池寛の『入れ札』を論じた文章で、カッケェなあ、と思った。北大路魯山人ほどじゃないが、名前も格好良い。あと、某Tubeで、村上龍いとうせいこう柄谷行人の鼎談を見たのだが、「生まれ変わったら何になりたい?」の問いに、「生まれ変わりたくない」と答え、「うわ、この手の話題で俺がいつも言うのと同じ答えや!」と勝手に親近感を覚えたのだ。

 

4.蓮實重彦の著作を読む。三島由紀夫賞の会見が最高だったし、あと名前が格好良い。北野武映画を初期から評価していたのは凄いし、北野武との対談動画も面白かった。僕は小津安二郎が好きなので、『監督 小津安二郎〔増補決定版〕 (ちくま学芸文庫)』はマストで読む。筒井康隆御大が評価していた小説『伯爵夫人』も読もう。んで、蓮實重彦代表作『表層批評宣言』もモチロン読む。

 

5.関川夏央谷口ジローの黄金コンビによる劇画事件屋稼業を読む。そういや、谷口ジロー死んじゃったね……。残念。

 

6.アメコミ『DARK KNIGHT バットマン:ダークナイトを読む。傑作との呼び声高し。ただ、スティーブン・キングも絶賛しているらしい。キングは大天才だが、キング絶賛の作品は微妙な場合もあるため、やや不安……。タランティーノもそうですね。

 

7.溝口健二鈴木則文の映画を観る。名前や評判はよく聞くが、実際に見たことはないので。

 

8.岡村靖幸のCDを買う。ネットで曲を聴いて前々から気になっていたし、いとうせいこうの『再建設的』というトリビュートアルバムに収録されているHEALTHY MORNING (Remixed By 岡村靖幸)が素晴らし過ぎたので。

 

9.兵庫県養父市にある山田風太郎記念館に行く。ファンだから。手塚治虫記念館くらい充実してたらいいんだが。

 

10.山口県山口市にある中原中也記念館に行く。ファンだから。

 

11.東京都墨田区にあるたばこと塩の博物館に行く。東京は遠いけど、ごっついオモロそう。

 

ま、こんな感じである。