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嫌々爺日記

日頃の愚痴か、エンタメ作品の感想か……

哀しき戦争の落とし子たち・『ゴジラ(1954)』

僕は比較的ジャンルを問わずに映画を観るタイプなのだが、こと特撮映画/怪獣映画に関しては、殆ど観たことがなかった。何故かは分からない。何となく、特撮映画や怪獣映画を経ずに成長してしまったのだ。子供の通過儀礼である筈のウルトラマンにも、それほど熱中した覚えはない。僕は『ウルトラマン コスモス』世代なのだが、ホントに一切、観た覚えがないのである(伊集院光の深夜ラジオで、『油性ペンで辻希美の右内腿にウルトラと描き、左内腿にスモスと書けば……』という下劣極まりないネタが読まれ、ゲラゲラと腹を抱えて笑った記憶ならばあるのだが……)。

 

そんな僕も、『キングコング:髑髏島の巨神』を観て「デッカいゴリラが暴れる」というシンプルな素晴らしさに気付き、ようやく特撮映画や怪獣映画に興味を持ち始めた。

そこで手始めに観たのが、ゴジラである。1954年公開の作品、すなわちゴジラシリーズの記念すべき1作目である。この作品が戦後僅か10年しか経っていない状況で作られたという事実には、驚きを禁じ得ない。

では、これより『ゴジラ』のネタバレ感想を記しますが、結構長い上にメリハリもない、本当にただの感想ですので、おヒマでない方はどうぞブラウザをお閉じください。

 

さて、まずはオープニング。黒い背景に白い文字で、キャストやスタッフの名前がクレジットされていく。背後では、デデデンッ、デデデンッ、デデデデデデデデデンッ!というお馴染みの厳然たる音楽が流れ、一気に観客の興奮を駆り立てる。あのメロディは、『ゴジラ』を観たことがない人間の血も滾らせるほど強力だ。まるで日本人のDNAに予め刻み込まれていたかの如く、ゴジラのメロディは我々の魂に呼応する(……なんて書くと何だか血統主義者じみていてイヤですが、まあ比喩ですのでご勘弁を)。

いかにして映画の世界へ観客を引き込むか、という課題を音楽一つで解決出来てしまうのだ。音楽そのものが持つ力もさることながら、日本人がゴジラというコンテンツから知らず識らずのうちに受けてきた影響力の強さを思い知らされる。実際に見たことがなくともその存在を周知しているというのは、ゴジラの他にはドラえもんサザエさんくらいのものだろう。

では、以下ストーリー。

 

ある日、太平洋沖で貨物船が原因不明の沈没事故を起こし、間も無く救助に向かった船も沈没する。沈没場所近くの大戸島に流れ着いた生存者は、「何者かに船を沈められた」と証言する。

取材に当たった新聞記者は、島の老人から「呉爾羅(ゴジラ)」という怪物の伝説を聞く。海に住む呉爾羅は時折魚を食い尽くすと、陸に上がって人間を喰らう。だから昔は、生贄に若い娘を捧げていたのだという。

そして暴風雨の夜、大戸島に巨大な何かが上陸し、家屋を破壊し、住民や家畜を殺傷した。島に停めてあったヘリコプターは、上から押し潰されたような状態になっていた。この異常事態に対し、政府は調査団ー古生物学者の山根博士、娘の恵美子、恵美子の恋人・尾形らーを島へと派遣する。

 

山根博士を演じるのは、我らが志村喬。改めて言及するまでもないその見事な風格によって、作品内にリアリティとシリアスさを与えている。

 

さて、島へと向かう調査団の船を見送る人々の中には、志村喬の弟子にして恵美子の元婚約者、芹沢博士の姿もあった。芹沢博士は戦争によって右目を負傷し、恵美子から身を引いたのである。その美貌と右目に付けた眼帯のせいで、芹沢博士は異彩を放っている。そんな芹沢博士の見送りに、恵美子も気が付いていた。

 

芹沢博士を演じるのは平田昭彦岡本喜八映画によく出てくる人だ。ごっさハンサムである。この芹沢博士を、『ドリフターズ』の織田信長、『ブラックジャック』のドクター・キリコと共に三大カッコいい眼帯キャラに認定しよう。

しかしこの芹沢博士の雰囲気は、眼帯であることを差し引いても何処か狂気を感じさせる。初見時、僕は彼のことを「あ、マッドサイエンティストやな」と思った。「もしかしてコイツがゴジラを操っているんじゃ!?」 と疑ったほどである。

 

島に到着し、早速調査に取り掛かった調査団。彼らはそこで、何メートルもある何かの足跡、何かの通過した場所から検出される高濃度の放射能、絶滅したはずの三葉虫など、数々の驚きの発見をする。……と思ったのも束の間、調査団はさらなる驚愕に遭遇する。山の尾根から頭を出す50m級の巨大生物が、眼前に現れたのである。

逃げ惑う島民をよそに、意外とあっさり巨大生物は海へと消えていった。だが、砂浜に残されたその足跡(と尻尾跡)の迫力は、息を呑むほどである。

 

ようやくハッキリと姿を見せたゴジラの特撮は、確かに今のCG技術と比較すればチャチいかもしれない。だがそれは、あくまでもCGと比較すれば、の話である。演出や演技のおかげで、ゴジラは本編中ずっと、中々の迫力を伴っている(画面が白黒だという点も、一役買っているだろう)。

そして何より、映画というのは技術ではなく魂である。「いかに凄いCGを魅せるか」にのみ力を注いだハリウッド大作が屍になって朽ちていく例を、我々は嫌というほど知っている。その点ゴジラ』は、当時の最高水準である特撮技術を巧みな演出と演技で補強している上に、熱い魂がある。故に、今尚面白いのである。

 

東京に戻った志村喬は、件の巨大生物を島の呉爾羅伝説に因んでゴジラと名付け、「海底の洞窟に住んでいた古代生物が、水爆実験によって住処を追われ、姿を現したのではないか」という見解を国会で発表した。

 

島に現れたゴジラをキチンと写真に収めていたお陰で、「ゴジラだと? ふん、くだらん! そんな話があるもんか」「本当です、信じてください」みたいな、SF映画によくある鬱陶しいやり取りもなく、スムースに物語は進んでいく。

 

ゴジラによる船の沈没事件は相続き、政府はゴジラの討伐を開始する。海にドッカンドッカン爆雷が投下されるニュースを観た志村喬は、「貴重な研究材料を……!」と憤る。

恵美子との結婚の許しを貰いに来た尾形は、「実害が出てるから討伐もやむなしでは……?」なんてことを言って志村喬をピリつかせてしまい、結婚の話は出せずに終わってしまう。

 

本筋とは関係ないし今更言うことでもないのだが、ゴジラ』に登場する男達は皆、めちゃくちゃハイウエストである。ネクタイも子供の七五三のような短さである。多分、この時代には普通のファッションだったのだろうが、そこだけどうも気になった。というか、チョット笑ってしまった。

 

爆雷に次ぐ爆雷攻撃も、ゴジラには通用しなかった。政府は志村喬を呼び出してゴジラを殺す方法を尋ねるが、志村喬「水爆の洗礼を浴びてすら生き延びたゴジラを殺すことはできない。それよりもあの生命力を研究すべきだ」と告げる。

そこで政府は、恵美子に元婚約者の芹沢博士を紹介するように頼む。戦後もひとりで何かの研究を続けている芹沢博士には、ゴジラを殺す秘策があるのではないかという噂があったのだ。

恵美子は政府の者を芹沢に紹介するが、芹沢は「知らない」の一点張りで追い返してしまう。政府関係者が去り恵美子と二人きりになった芹沢博士は、「ホントのところ今なんの研究をしてらっしゃるの?」と訊かれ、「恵美子さん、見せたげようか? その代わり、絶対に秘密ですよ。僕の命がけの研究なんだ。念を押すが、誓ってくれるね?」と答える。そして地下室へと連れて行き、恵美子にとある研究を見せるのであった……。

 

このときの芹沢博士の「恵美子さん、見せたげようか? その代わり、絶対に秘密ですよ。僕の命がけの研究なんだ。念を押すが、誓ってくれるね?」という台詞とその表情が、なんとも危ういオーラを放っている。不気味ではないが、普通ではない。

しかし、芹沢博士の恵美子に対する態度の切なさたるや……。恵美子はそもそも、芹沢博士に対しては兄への慕情に似た気持ちしか抱いていなかった。だが芹沢博士は、未だに恵美子を女性として愛している。しかし恵美子の現恋人である尾形(芹沢博士の後輩でもある)に嫉妬の炎を燃やしたりせず、恵美子に纏わり付いたりもせず、スーッと身を引き、恵美子と尾形に対して適度な距離を保ち続ける。

そんな中で「芹沢さんはどんな研究してらっしゃるの? お父様も気にしてらしたわ」なんて言われたら、嬉しくなっちゃうよね。研究の成果、見せちゃうよね。分かります、分かりますよっ芹沢博士! なんつって、もうゴジラの生き死によりも芹沢博士の悲恋っぷりに惹かれ始めてしまう僕でありました。

 

そんな僕の気持ちを見透かしたゴジラは「忘れるなっ!」と叫びながら東京湾に現れる。自衛隊の銃撃など当然効くはずもなく、ゴジラは上陸する。破壊の限りを尽くしたゴジラは、再び海へと去っていく。

東京湾にひそむゴジラ対策のため、政府は「東京湾沿岸に5万ボルトの高圧送電線を張り巡らせる。

しばらくして、ゴジラはまた現れた。ゴジラは送電線に接触しビリビリっとしたものの、口から放射能熱戦を吐き出し、送電線を飴のように溶かしてしまう。戦車の砲撃をものともせず、ゴジラは突き進み、東京の名物建築物をバコスコと破壊し、国会議事堂を叩き潰し、テレビ塔を破壊していく。

 

テレビ塔から実況を続ける報道陣に接近するゴジラ死の直前まで実況を続け、「さようならーっ!」と叫んでゴジラに殺されていく報道陣の姿は、何とも美しい。プロフェッショナルである。「実況してるお前は英雄面して死ねるやろうけどさ、オレ達カメラマンの死は印象薄いやん?」などと僕なら絶対言うが、そんなことは誰も言わない。プロフェッショナル集団である。

 

ゴジラはグングン東京湾に進む。ジェット機のロケット弾攻撃もなんのその、ゴジラはまたもや海の中へと去っていった。

廃墟と化した東京。老若男女問わず犠牲になった甚大な被害に加え、放射能汚染も起きていた。被災者の救護に当たっていた恵美子はその惨劇を目の当たりにし、遂に芹沢博士に見せられた実験を尾形に明かす。

芹沢博士はあの日、地下室の水槽にある装置を入れた。その装置は一瞬でブクブクと泡を立てたかと思うと、水槽内の魚は全匹死滅し、やがて骨だけになった。

水中の酸素を奪い生物を死滅させ、液状化する恐怖の化学兵器「オキシジェン・デストロイヤー」。これこそが、芹沢博士の研究だったのだ。

芹沢博士はこの兵器が各国の手に渡り軍事利用されることを恐れ、秘密にしているのである。

 

いやはや、何というチート兵器! というか芹沢博士、元婚約者に何ちゅうもん見せてんねん。

 

尾形と恵美子は芹沢博士のもとに向かい、ゴジラを殺すためにオキシジェン・デストロイヤーを使わせてほしいと頼み込むが、芹沢博士は頑として首を縦に振らない。

しかし二人の必死の説得や、テレビから聞こえてきた女学生による合唱「平和への祈り」に心を動かされ、「一回かぎり」を条件に使用を認めるとともに、資料を全て破棄する(いずれ人類の役に立つ利用方法が見つかるかも、ということで、芹沢博士は研究を続けてきたのだ)。

東京湾に潜むゴジラを探知船で確認した芹沢博士は海底へと潜る。やがて、ゴジラが目の前にやってくる。途轍もない迫力。何か言いたげにゴジラを見つめつつ、芹沢博士はオキシジェン・デストロイヤーを作動させた。海水が激しく泡立ち、ゴジラが断末魔の叫びをあげる。

泡立つ海面を見た尾形らは、浮上してこない芹沢博士を不審に思い、慌てて命綱を引き上げる。だが命綱は、芹沢博士によって切断されていた。ゴジラ討伐のためとはいえ恐怖の兵器を使ってしまった芹沢博士は、今後も自分はまた使ってしまうだろうと確信していた。各国からの甘い誘いや研究者としての成功を断ち切れるほど自分は強くないと、芹沢博士は知っていたのだ。それゆえ、兵器に関する記憶とともに自らも海に消えようと考えたのである。

そしてゴジラは最後の咆哮を捧げ、死に絶えた。無論、芹沢博士もまた死んでしまったのである。

船上では人々が歓喜に湧く中、尾形と恵美子は悲しみに暮れていた。

志村喬が訥々と呟く。「あのゴジラが最後の一匹とは思えない。もし水爆実験が続けて行われるとしたら、あのゴジラの同類がまた世界のどこかへ現れてくるかもしれない……」

船上の人々は、海に、海に住んでいた生き物たちに、そして芹沢博士に、黙祷を捧げるのであった。

 

 芹沢博士ェェェッ‼️‼️と思わず叫びたくなる。マッドサイエンティストだと思ってごめんなさい。コイツがゴジラを操ってんじゃ? などと疑ってごめんなさい。

芹沢博士、素晴らしい。感涙、落涙、滂沱の涙である。確かに本作は、反戦映画、反核映画として名高いのだろう。最後の志村喬な台詞は、『七人の侍』のラストに匹敵する重みだし、冒頭で述べた通り、戦後10年でこの作品を作り上げたのは本当に感服に値する。だがしかし。やっぱり何と言っても、魅力は芹沢博士である。もはや、映画のタイトルは『セリザワ』にすべきだと言っても過言ではない……というのは流石に過言だが、ゴジラ』が芹沢博士の魅力なしでは成立し得ない作品であることは間違いない。

ケンタッキーフライドチキンの主役は、鶏肉ではなく衣である。あの旨すぎる衣を最も引き立たせる肉が、たまたま鶏だったのだ。『ゴジラ』も同様、一番の主役はゴジラではなく芹沢博士である(もちろんゴジラを脇役とまでは言わない。ゴジラは、芹沢博士に次ぐ主役である)。

「水爆の落とし子」とよく称されるゴジラだが、芹沢博士もまた、戦争が生んだ悲劇の落とし子なのだ。戦争のせいで右目を失い、残された左目で見た景色はどれほど切なかっただろうか。

愛する人が自分の後輩(しかも好青年)と愛を育むのを、優しく見守るしかない芹沢博士。それを振り払うかのように研究に没頭した芹沢博士。そして恐ろしい兵器を生み出してしまった芹沢博士。つい恵美子に研究内容を明かしてしまった芹沢博士。しかもちゃっかりそれをバラされてしまった芹沢博士。最後は、人類の希望のために、己の人としての尊厳のために、ゴジラとともに海へと消えていった芹沢博士。

芹沢博士、何と気高い人であろうか。

海中でゴジラと対峙した芹沢博士の左目は、「お互い、生きてちゃいけない存在なんだよ」とでも言いたげであり、とても悲しい。だが同時に、その芹沢博士の姿はとても優しく、美しい。あれこそが、人間の美しさなのである。

悪ふざけみたいな吹き替え

外国語映画を吹き替えで観るか字幕で観るか、というのはよく議論になる話である。だが、別に映画通ぶる訳でも選民意識を持っている訳でもないのだが、この議論をする人はハリウッド大作以外の映画をあまり観ない人ではなかろうかと、字幕派の僕は思う。というのも、字幕しか選択肢のない映画が世の中大勢存在するからである。フランス映画、インド映画、韓国映画、昔のアメリカ映画、サイレント映画……。こういった、字幕で見ざるを得ない映画も好んで観る人間は、必然的に字幕付きで映画を観る体質になってしまう。それゆえこの手の字幕派は、吹き替えがある映画でも、わざわざ吹き替えで観ようとは思わないのだ。

この事実に言及しないまま「字幕の利点」や「吹き替えの利点」を主張して議論する人は、字幕のない映画を観ない人なのだろう。

……まあそもそも、好きなスタイルで観ればいいだけの話なんですけどね。

 

さて僕の場合、小さい頃から金曜ロードショーなどで吹き替え映画をよく観ていたため、以前は吹き替えでも観られる体質だった。それが字幕派へと移っていったのは、前述の理由(=吹き替えが収録されていない映画を多く観るようになった)の他に、もう一つある。本稿のタイトルの通り、悪ふざけとしか思えない吹き替えが多過ぎるのだ。

日本には優れた声優が数多く存在するにもかかわらず、どういう訳か、配給会社はタレントや芸人や役者に吹き替えをやらせる。爆笑問題・田中など一部の例外を除き、ド素人が声優なんてできる訳ないのだ。そんなサルでも分かることが分からない、否、分かった上で(話題性と集客力のためか、芸能プロダクションの圧力のせいかは知らないが)やっている配給会社の愚劣っぷりは、万死に値する。

 

字幕界には戸田奈津子さんという悪の女帝がいらっしゃる。彼女は時折とんでもない誤訳・珍訳をやらかし、映画関係者や映画ファンからの大バッシングを幾度となく受けているにもかかわらず、そんな批判はどこ吹く風とばかりに悠然と字幕界に君臨し、トム・クルーズからお中元をもらったりしている。なぜ戸田奈津子さんがあれほど大物然としているのか、僕のような一般人には大いに疑問である。

しかしそれよりさらに疑問なのが、「吹き替えに悪ふざけとしか思えないド素人を起用する配給会社には、プロとしての矜持がないのか?」ということである。

戸田奈津子さんは、腐ってもプロの翻訳家として良し悪しを評価されている。だがド素人吹き替えの場合、それ以前の問題だ。全編ずっと誤訳みたいなものである。そんな連中に、よく吹き替えを依頼するものだ。

『プロメテウス』を観ようとして「字幕:戸田奈津子/吹き替え:剛力彩芽だったときの僕の気持ちを、お前ら配給会社は考えたことがあるのか! という話である。しかも、作品自体もハズレだったんだぞ! ……ってまあ、それは配給会社のせいではないが。

 

中でも最近僕が最も憤ったのは、『マッドマックス 怒りのデス・ロード』のBlu-ray版に収録された吹き替えである。これが、劇場公開時と全く同じだったのだ。すなわち、EXILEAKIRA竹内力真壁刀義……である。

1カット、1カットがまるで神話のような色彩を帯びている奇跡的傑作の吹き替えが、ド素人なのである。何とも許しがたい。日ハムのトレイ・ヒルマン監督だ。シンジラレナーイ。……つって、こんなつまらないことを言いたくなるほど、僕は心底腹が立った。

 

悪ふざけとしか思えない演技しかできないド素人に吹き替えをさせるくらいなら、一層のこと、もう思いっ切り、徹底的に悪ふざけをしてほしいものである。

EXILEAKIRAではなくボビー・オロゴン竹内力ではなく長州力真壁刀義ではなく天龍源一郎。……吹き替えなのに日本語の字幕が必要、という混沌たる惨劇を引き起こすのだ。

他にも『ダークナイト』のジョーカーを松野明美、『ホーム・アローン』の主人公を寺田心、『ターミネーター』のシュワちゃんをクロちゃん……なんて風にして、作品を台無しにすればいい。

さらに、映像自体にもCGで手を加えちゃおうではないか。

たとえば『ゴースト/ニューヨークの幻』でろくろを回す例の感動的なシーン。あのろくろを、CGで超高速回転させるとか。

びっくり系ホラーの洋画は全部、ワッ!という怖いシーンが来る五秒前からカウントダウンを表示するとか。

シリアスな映画で人が死ぬたびにテレッテ、テレッテテッ!というマリオが死んだ時の効果音を流すとか。

 

勿論こんな悪ふざけをすれば、版元や作品の熱烈なファンからは血反吐を吐くほどの抗議が殺到するだろう。だが、僕のようにゲラゲラと哄笑をあげながら割れんばかりの拍手を送るバカも、意外といるのではないでしょうか。

配給会社さん、今後は「 字幕、声優による吹き替え、悪ふざけ」の三種類を劇場上映、DVD収録してくれないだろうか。責任は僕が取ります。嘘です。

外部に持ち出された内輪ノリ

読書メーターというアプリを3月の終わりに始めた。本ブログ同様、「嫌々爺」という名前で登録している。ネットなんてGoogle検索か2ちゃんねる閲覧かYou Tubeくらいしか使わなかった僕としては、ブログを始めたというのも我ながらよくやった感があり、それを皮切りに他のネットツールも使ってみようと思い立った次第だ。

他人の意見を読むというのはいいものだと今更ながらに気付き、You Tubeのコメント欄を今まで以上に読んだり、登録こそしていないがTwitterを見始めたりもした。

 

そこで、腐女子批判を展開している人を見つけた。曰く、「BL趣味そのものは否定しない。だが、腐女子の多くは、自分達のそのノリをどこでも持ち出してくる。BL要素の本来ないアニメや漫画のファンが集まる場で、〇〇と××のカップリングが云々という話をするのは、はっきり言って目障りだ。インターネットとはいえ公共の場というものがあり、マナーというものがある。BLを好ましく思わない人間も中にはいるのだ。腐女子のノリは、腐女子が集まる場だけにしてくれ」というものだった。実際はもっと長文だったハズだが。

なんとも倫理的かつ論理的な腐女子批判だ。ただひとつ、その批判をしている人間のアイコンが「野獣先輩」であるという点を除いては。

 

『真夏の夜の淫夢』というゲイAVがかつてあった。この作品はAVにはしばしばあるチープなドラマ仕立てらしく、ある時期からインターネットでよくネタにされている。そしてその出演者のうちの一人が、「野獣先輩」という渾名で呼ばれているのだ。

 

『真夏の夜の淫夢』や「野獣先輩」を面白がってネタにする人のことを、淫夢厨と呼ぶらしい。彼らは、当該AVで出てきた言動を「淫夢語録」と名付け、ネットのありとあらやる場所で使っている。ゲイAVなど何の関係もない場所で、だ。

 

正直、ネットのあらゆる場に出没する淫夢厨は、かなりすべっている。薄ら寒い身内ノリである。バラエティはつまらないと言いつつ淫夢語録を嬉々として使う彼らは、クラスのムードメーカーを見下しながら教室の隅で盛り上がる二、三人の陰気な生徒達みたいである。

とはいえ、内輪ノリなんてものは無関係の人間から見たらクソつまらない、というのは至極当然の話であり、淫夢ネタが薄ら寒いことは何ら問題ではない。問題は、そのネタをネットのあちこちですることだ。

先の腐女子批判になぞらえて言うならば、「淫夢ネタそのものは否定しない。だが、淫夢厨の多くは、自分達のそのノリをどこでも持ち出してくる。ゲイAV要素のない場で淫夢語録を使うというのは、はっきり言って目障りだ。インターネットとはいえ公共の場というものがあり、マナーというものがある。淫夢ネタを好ましく思わない人間も中にはいるのだ。淫夢語録は、淫夢厨が集まる場だけにしてくれ」ということである。

 

(『真夏の夜の淫夢』がホモフォビアか否かは、ここでは論じない。淫夢厨の中には「俺たちはホモをバカにしているんじゃなく、チープな脚本や演技をバカにしてるだけだ」と主張している人もおり、その言葉の真偽を検証するため実際に当該AVを観るほどの根気は僕にはないからである)

 

さて、「アニメや漫画のコミュニティでBL趣味を持ち出してくる腐女子のマナー違反を痛烈に批判する人のアイコンが、野獣先輩」というこの現象。僕にはギャグとしか思えないが、この人の腐女子批判には多くの賛同が寄せられていた。「お前もアイコン野獣先輩じゃん」と批判する者は当然おらず、むしろそのアイコンすら面白がり、淫夢語録を交えてツッコミを入れる人が多かった。

淫夢厨の基準では、腐女子が公然とBLのカップリングを話すのはクソだが、淫夢厨が淫夢語録を公然と話すのはOKのようだ。

 

……正直、なぜこの話をブログに書こうと思ったのか自分でもよく分からない。記事の着地点もうまく見当たらない。だが、鬼の首を取ったように腐女子を批判する人々が野獣先輩アイコンには苦言すら呈さない、という現象が、僕には異様で不気味に感じられたため思わず書きたくなったのだ。

大袈裟かもしれないが、虐殺ってこんな感じで起こるんじゃないか、とさえ思った。

腐女子批判を展開する人のアイコンが野獣先輩だと気付いたときにふっと自分の顔に浮かんだ苦い微笑を、僕は生涯忘れられない気がする。

たまには悲劇のヒロインぶって

突然だが、ってまあブログなんてものはいつも突然始まるものなのだが、ウチの父親は不倫をしている。僕は現在満18歳、ピカピカの大学生一年生である。父の不倫に気付いたのは遡ること五年前、当時13歳、色々厄介なお年頃、中2のときであった。

知るに至った経緯を克明に記すのは陰々滅々たる気持ちになるため省略するが、父の不倫を知ったとき僕は、「ええ……」と思った。ガキ使などで浜ちゃんが理不尽な言動をしたときに松っちゃんが発する、あの「ええ……」だ。うっそーん、てヤツである。

ウチのパパに限ってそんな家族を裏切るようなことする筈ない! と思うほど両親の関係はラブラブではなかったし、そんなことを思うほど父を、というか全ての人を、僕は信頼していなかった。では何故「ええ……」と思ったかといえばそれはもう理由は一つであり、「ウチの父親と不倫する女なんておるんかい!」だ。父はハンサムでも金持ちでもない普通のおっさんである。それなのに、不倫する/出来るのだなあと、どこか他人事めいた感想を抱いたのを覚えている。

元々どこか冷めたところのある僕は、父の不倫にもダメージを受けなかった。……と、最初は思った。だが、これは間違いだった。

笑い声や怒鳴り声など、父の一挙手一投足に苛立ちを覚えるようになったのである。愉快そうにテレビを見て笑う声を聞けば、「不倫してるくせに……」と思い、僕に説教をすれば、その内容がいくら正しくとも、「不倫してるくせに……」と思ってしまう。両親が険悪なムードになれば、「お父さん不倫してんで!」と叫び、家庭を崩壊させたい衝動に駆られる。逆に両親が仲良く喋っている場合でも、同様の衝動に駆られた。

父に料理をダメ出しされた母が料理番組を見てメモを取っている姿を見ると、「そんなんしても、夫さん不倫してまっせ」と母を嗤いながらも、鼻の奥が熱くなるのを堪えられなかった。

だが、だからと言って、子供の頃から至ってまともに愛情を注いでくれた父を、完全に嫌い、軽蔑することは出来なかった。仕事で大変な父の息抜きだと、不倫を肯定してみようともした。しかし、やはり父の言動には依然として腹が立った。父は、テレビで女性タレントが奔放な性の遍歴(四股かけて貢がせてました、てへぺろー、みたいな)を語っているのを見ると、「クズやな」と言っていた。どのツラ下げてどの口が言うのかと、苛ついた。腹部が、鉛を飲み込んだように重たくなった。それでも、父を嫌いにはなれなかった。

この暗澹たる循環生活を、僕は笑顔で過ごさねばならなかった。家庭の平穏を破壊したい衝動に駆られながらも、 その先に待ち受けている悲惨さを考え、僕は何も知らないような顔をして、家の中で笑っていた。馬鹿みたいに。ピエロみたいに。腹の底ではドロドロとヘドロが溜まり、腐臭を放ち続けていた。僕はその臭いを決して外に漏らさぬよう、必死で口を閉じ続けた。つい漏れてしまったときには、屁だと言って誤魔化した。「俺がイライラしてるのは思春期のただの反抗期です」というフリをしたのだ。

このことは、生涯誰にも言えない。腹の底に溜まり続けたヘドロは、この先一体どうなるのだろうか。僕が家で見せている笑顔のうち、一体何割が本心からの笑いなのだろうか。自分でも分からない。家に限らず、日常の全てにおいて、偽りの笑顔と心からの笑顔の区別が付かなくなっている。
死にたい、と積極的には思わないが、生きたいとも積極的には思わない。君のためなら死ねる、という恋愛モノの定番セリフも、僕には意味をなさない。別に見知らぬ子猫のためにでも死んで構わないからだ。死を選ぶのに大それた理由はいらない。空が澄んでいるから、晩飯の唐揚げが旨かったから、夕日が綺麗だったから。それだけで、充分死ぬ理由になる。父の不倫だけではない。何もかもがもう嫌なのだ。ありとあらゆるものが嫌で嫌でたまらないのだ。生きていても全然楽しくない、とは思わないが、かといってそれほど楽しいとも思わない。

そんな僕でも時折、「生きていてよかった」と思う瞬間がある。その一瞬だけで、それまで100回「生きたくないなあ」と思った事実が打ち消される。「生きていてよかった」と思える瞬間が次に訪れるのはいつだろうかと考えながら、僕は生きたくもない毎日を生きている。……なんつって、こんな風にウジウジ考えていたのは今は昔、竹取の翁といふものが野山にまじりて竹を取りつつ万のことにつかっていた時代の話であり、現在ではもうケ・セラ・セラのケ・セラ・セラ、なんくるないさーったらなんくるないさーの精神で、毎日よろしくやっている。というのも、この境地に至ったのには訳があり、それというのも、生きたくない願望がピークに達したある日、「こんな満月見てると、なんか死にたなるよね」と冗談めかして言った僕に対して、交際していた彼女が「やだよ。死なないでよ? 寂しいよ」と真面目に返してきたからなのである。

彼女いるくせに生きたくないってお前クズだな、という批判は一旦置いておいて、僕はその彼女の言葉に、猛烈に感動したのである。僕が死んだところで世界は何にも変わらず回り続けると思っていたし、まあ現にそうだろうが、悲しむ人はいるのだという当たり前の話を、僕はそのときになって初めて気が付いたのだ。

それ以来僕は、「君のためなら死ねる」ではなく、「君のためなら生きていける」と思いながら生きている。……なんつって、ここまで書き終えて僕は、「悲劇のヒロインぶる筈が彼女への甘ったるいラブレターになってもうた。いやそもそも、ヒロインて……。俺男やん。でも、悲劇のヒーローっつうのは何かちゃうしなあ。てか、どうやってこのブログ終わらせたらええんやろ」などと頭を掻きながら悩む羽目になってしまった。だが残念ながらこれといって何も思いつかず、まあこうなれば最終手段だ、ボツにしよう、どうせ誰も読みゃしねえんだよこんなブログ。つって、本稿を削除しようとしたついでに僕はふと窓の外を見た。そんな僕の目に飛び込んできたのは、満月。煌々と照って、ぽつねんと。

日本は右傾化していない

東京書籍の小1向け道徳の教科書のある記述が、文部科学省の検定意見によって変更を強いられた。変更となった題材は『にちようびのさんぽみち』という話で、主人公の少年があまり通ったことのない道を歩き、自分の住む街の新たな魅力を見つける、という、まあいかにも道徳の教科書っぽい内容である。

で、変更前の記述が次の通りだ(原文は平仮名ばかりで読みにくいため、適宜漢字に直している)。

 

良い匂いがしてくるパン屋さん。

「あっ、けんたさん。」

「あれ、たけおさん。」

パン屋さんは、同じ一年生のお友達の家でした。おいしそうなパンを買って、お土産です。

 

これが、「学習指導要領に示す内容(伝統と文化の尊重、国や郷土を愛する態度を学ぶ)に照らし、扱いが不適切」であり、「我が国や郷土の文化と生活に親しみ、愛着を持つことの意義を考えさせる内容になっていない」ため、次のように変更された。

 

甘い匂いのするお菓子屋さん。

「うわあ、いろんな色や形のお菓子があるね。きれいだな。」

「これは、日本のお菓子で、和菓子というんだよ。秋になると、柿や栗の和菓子をつくっているよ。」

お店のお兄さんが教えてくれました。おいしそうな栗のおまんじゅうを買って、大満足。

 

バーカ! という言葉しか見当たらない。

パンが日本に伝来してきたのは安土桃山時代だが、日本人の舌にはなかなか馴染まず、明治維新後も庶民には広まらなかった。そこで木村安兵衛という人がパン屋を創設し、日本人の好みに合ったパンを作ってパンを普及させようとした。そして6年もの歳月を経て作られたのが、「あんパン」である。

西欧のパンと日本の餡を合わせたこの食べ物は評判になり、明治天皇皇后両陛下にも献上された。両陛下はあんパンを気に入り、あんパンは飛躍的に日本人の間に広まった。そしてそれ以降、日本人の口にあった多種多様なパンが作られては広まり、我々日本人は150年以上もパンを食べ続けてきたのである。2011年には、1世帯当たりのパンの購入金額が米のそれを上回ってすらいる。パンは間違いなく、日本人にとって大切な食べ物である。

にもかかわらず! 「国を愛する態度に反する」という馬鹿で愚かな理由で、和菓子屋に変更されたのだ。腹立たしいことこの上ない。

 

しかも、『にちようびのさんぽみち』の挿絵を見ると、登場人物はみんな洋服を着ているのだ。そんなに「日本固有の文化」が好きなら、和服着させとけよ、馬鹿。

 

全国のパン屋はこの変更に猛抗議し、一部ネット民は「抗議するほどのことではない」だの、「変更する方もする方だが、抗議する方もする方。どっちもどっち」だのとほざいている。馬鹿か。

大体僕は、「どっちもどっち」という言葉が嫌いである。揉めている双方の主張を吟味する労力や知能はないが、何か一言言っておきたい。だから、「どっちもどっち」などと言うのだ。それさえ言えば、あたかも自分が上の立場にいる賢い人間のように見えるからである。うっせえよ、バーカ。

 

日本は遥か昔から他国の様々な文化を輸入し、自国の文化や風土を織り交ぜて洗練し、発展させてきた。他国の文化を大量に受け入れてきたことは何ら恥ずべきことではない。いやむしろ、それらに日本の色をつけて独自に発展させてきたことは誇ってすらいい話である。

起源は外国だとしても、現在日本で食べられているパンは日本の文化なのだ。ラーメンもまた然り。

だが馬鹿な文部科学省は、そんなことを考えはしない。「愛国! 日本の伝統! 日本の文化!」という薄っぺらな思想のもと、「日本の伝統といえば和菓子だ! パンは違う!」という馬鹿で表面的なイメージを掲げ、パン屋を和菓子屋に変更させる。本当に馬鹿である。

 

今回の教科書変更だけでなく、この手の薄っぺらな愛国観に基づく馬鹿な言動を、最近よく目にする。遠藤周作原作、スコセッシ監督の映画『沈黙』を「反日!」と罵ったりね・笑。

 

昨今、「愛国心」やら「日本らしさ」やらを偉そうに押し付けてくる自称愛国者の方が増えているが、その実、彼らの口にすらそれらは単なる記号でしかない。中身ゼロである。

 

日本は右傾化している、とよく言われているが、そんなことはない。日本は右傾化していない。ただただ、知的退化しているのだ。

悪影響を及ぼす物は規制しよう

小児性愛者が性犯罪を犯すと、漫画・アニメの悪影響が取り沙汰される。現に石原慎太郎元都知事閣下なども、漫画やアニメを嫌い、規制を推進した。

 

そうなのだ。漫画・アニメは誰かしらに悪影響を及ぼすのは間違いないのだから、こんなものジャンジャン規制すればいいのだ。漫画やアニメを生き甲斐にする人間が大勢いることから分かる通り、漫画やアニメは強い影響力を持つ。ならば、誰かしらに悪影響だって与えているはずだ。規制せねばなるまい。

ロリ要素のあるもの。エロやバイオレンスの香りがするもの。こういった作品は、全て規制するべきである。小児性愛者を増やし、性犯罪を増やし、傷害、殺人事件を増やす原因になってしまう。もちろん手塚治虫ジブリも例外ではない。『ドラえもん』のしずかちゃん入浴シーン、『サザエさん』のワカメのパンツなども、不健全極まりない。経済効果など知ったことではない。

漫画・アニメは悪影響を及ぼすのだから、規制するべきである。

 

小説ももちろん規制の対象である。文学、文豪、などという高尚ぶった言葉に惑わされてはいけない。谷崎潤一郎など、あんなものただのエロだ。悪影響を及ぼす。漫画・アニメ同様、ロリ要素のあるもの、エロやバイオレンスの香りがするものは、全て規制しなければなるまい。

 

児童書の中にも、悪影響を及ぼす作品は潜んでいる。『かいけつゾロリ』などその最たる例だ。主人公が悪党であり、しかもそれを美化している。子供が不良に憧れ、将来非行に走る要因である。『かいけつゾロリ』シリーズは、絶版にしなければならない。

 

漫画・アニメ、小説とくれば、当然ドラマ・映画規制の対象だ。名作、などという金メッキを剥がせば、ドラマや映画は殆ど全て不健全である。世界的な賞を獲ろうが知ったことではない。ドラマ・映画は、みんな悪影響を及ぼすのだ。規制せねばなるまい。

 

だいたいフィクションなどというものは、現実に対応出来ない者たちの逃げ道に過ぎない。ありもしない世界に感動してどうするのだ。フィクションが豊かになるにつれ、現実は乏しくなっていく。フィクション作品などがあるから、弱い人間が生まれるのだ。

 

忘れてはならないのが、音楽である。音楽の中にも、不健全で悪影響を及ぼすものが多々ある。

ヘヴィメタル、ロックなどは暴力的であり、悪影響を及ぼす。規制の対象だ。ラップ・ヒップホップは不良の文化を助長している。これも規制だ。甘ったるいJ-POPも規制だ。歌なんぞで恋愛を歌うから、若者が歌だけで満足し、少子化が進むのである。

聞いていいのは、インストゥルメンタルだけである。但し、スカなど野蛮で悪影響を及ぼすものは聞いてはいけない。

 

バラエティ番組悪影響を及ぼす。プロが仕事として行う「イジリ」という概念など、子供に通じるはずがない。イジメを助長するだけだ。規制しなければならない。

そもそも、テレビというものが悪影響を及ぼすものなのだ。CMは不愉快であり、ニュース偏向報道ばかり。不健全極まりない。テレビは、スポーツ中継以外全て規制の対象である。

 

いや、スポーツ悪影響を及ぼしている。サッカーなどはもはや、いかに上手く転んで相手からファールを取るかを競うスポーツであり、嘘つきを生む原因だ。サッカーに限らず、スポーツは往々にしてそういう不健全な側面を持っている。やはり、規制しなければなるまい。

 

次に規制しなければならないのはなんだ。何がある。そうだ、煙草がある。

煙草は健康に悪く、歩きタバコも深刻な問題だ。マナーを守って吸っている人間がいようとも、マナーを守れない人間が一人でもいる限り、煙草は悪影響を及ぼす。煙草は、不良文化の入り口でもあり、やはり不健全だ。規制しなければならない。

 

臭いという意味では、香水、柔軟剤、酒、これらは全て悪影響を及ぼす。酒に至っては、酔っ払いのトラブルが頻発しているから、ますます不健全だ。規制せねばなるまい。

 

まだ残っているのは何だ。 どんどん規制しよう。落語、歌舞伎、浄瑠璃、能、狂言、歌劇、演劇……。フィクション文化は根こそぎ規制しよう。どうせ叩けば埃が出るのだ。悪影響を及ぼす要因の一つや二つ、あるに決まっている。

 

もっと言えば、そもそも娯楽などというもの自体が不健全であり、悪影響を及ぼすのだ。権利だ、自由だ、娯楽だ、などと叫ぶ人間が増えたから、日本はどんどん沈没していってるのだ。

汗水流して働き、働き、働き、働く。結婚し、家庭を持ち、友人を持ち、そういった人々との交流だけを楽しみとし、また働いて、また働く。これこそが、人間の健全な姿である。

 

文化も伝統も正論も理屈も、知ったことではない。不健全なものは、不健全なのだ。悪影響を受けて酷い行動をする人間が悪いのではない。悪影響を及ぼす可能性が少しでもあるものを、発信する方が悪いのだ。

人々に悪影響を及ぼし得る不健全なものを完全に規制し、健全な社会を作ることが求められる。個人レベルでの権利や自由・幸福など小さな問題であり、大きな視点で社会を見たときに健全であることが、何よりも大切なのだ。

悪影響を及ぼす物は規制しよう。全て、残らず、完璧に。その先にはきっと、不健全なほど健全な社会が待っているはずだ。

神経質な描線の闇〜エドワード・ゴーリー

僕は、エドワード・ゴーリーという絵本作家のファンだ。何冊も彼の著作を持っているし、原画展にも足を運んだ。

エドワード・ゴーリーは、細い描線を神経質なまでに書き込み、重ねていくことで、闇を浮かび上がる。このとは、文字通り光の加減によって物体に生じる陰影のことでもあり、同時に、人間やこの世界に潜む狂気・恐怖・不条理のことでもある。

 

たとえば『ギャシュリークラムのちびっ子たち または 遠出のあとで』という作品は、A〜Zまでのアルファベットを名前の頭文字に持つ26人の子供達が、それぞれ多種多様な死を遂げる場面を描いている。

だがこの作品は、何か悪いことをした子供達がバツを受けて死んでしまう、といった教訓話ではない。かといって、子供達の死を残虐に描いて愉しむというサディスティックな作品でもない。

ゴーリーはただ単純に、を描いているに過ぎない。過激さや不謹慎な衒いではなく、ひたすら冷たく軽やかに子供達の死を描いているだけなのだ。冷たさと軽さこそが死の本質であり、それを絵本として描くことで、ゴーリー死の不条理=闇を鮮やかに浮かび上がらせたのである。

 

同様にゴーリーは、『不幸な子供』ではタイトルの通り不幸という不条理=闇を、『おぞましい二人』では人を殺す人間の狂気=闇を、『蟲の神』では少女の死という不条理=闇を、『ウエスト・ウイング』では得体の知れない恐怖=闇を、まざまざと浮かび上がらせている。

 

これらの闇は、我々の日常の中に当然のごとく潜んでおり、決して切り離すことは出来ない。だからこそ人々は、ゴーリーの描く絵本に強く惹かれるのである。