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嫌々爺日記

日頃の愚痴か、エンタメ作品の感想か……

たまには悲劇のヒロインぶって

突然だが、ってまあブログなんてものはいつも突然始まるものなのだが、ウチの父親は不倫をしている。僕は現在満18歳、ピカピカの大学生一年生である。父の不倫に気付いたのは遡ること五年前、当時13歳、色々厄介なお年頃、中2のときであった。

知るに至った経緯を克明に記すのは陰々滅々たる気持ちになるため省略するが、父の不倫を知ったとき僕は、「ええ……」と思った。ガキ使などで浜ちゃんが理不尽な言動をしたときに松っちゃんが発する、あの「ええ……」だ。うっそーん、てヤツである。

ウチのパパに限ってそんな家族を裏切るようなことする筈ない! と思うほど両親の関係はラブラブではなかったし、そんなことを思うほど父を、というか全ての人を、僕は信頼していなかった。では何故「ええ……」と思ったかといえばそれはもう理由は一つであり、「ウチの父親と不倫する女なんておるんかい!」だ。父はハンサムでも金持ちでもない普通のおっさんである。それなのに、不倫する/出来るのだなあと、どこか他人事めいた感想を抱いたのを覚えている。

元々どこか冷めたところのある僕は、父の不倫にもダメージを受けなかった。……と、最初は思った。だが、これは間違いだった。

笑い声や怒鳴り声など、父の一挙手一投足に苛立ちを覚えるようになったのである。愉快そうにテレビを見て笑う声を聞けば、「不倫してるくせに……」と思い、僕に説教をすれば、その内容がいくら正しくとも、「不倫してるくせに……」と思ってしまう。両親が険悪なムードになれば、「お父さん不倫してんで!」と叫び、家庭を崩壊させたい衝動に駆られる。逆に両親が仲良く喋っている場合でも、同様の衝動に駆られた。

父に料理をダメ出しされた母が料理番組を見てメモを取っている姿を見ると、「そんなんしても、夫さん不倫してまっせ」と母を嗤いながらも、鼻の奥が熱くなるのを堪えられなかった。

だが、だからと言って、子供の頃から至ってまともに愛情を注いでくれた父を、完全に嫌い、軽蔑することは出来なかった。仕事で大変な父の息抜きだと、不倫を肯定してみようともした。しかし、やはり父の言動には依然として腹が立った。父は、テレビで女性タレントが奔放な性の遍歴(四股かけて貢がせてました、てへぺろー、みたいな)を語っているのを見ると、「クズやな」と言っていた。どのツラ下げてどの口が言うのかと、苛ついた。腹部が、鉛を飲み込んだように重たくなった。それでも、父を嫌いにはなれなかった。

この暗澹たる循環生活を、僕は笑顔で過ごさねばならなかった。家庭の平穏を破壊したい衝動に駆られながらも、 その先に待ち受けている悲惨さを考え、僕は何も知らないような顔をして、家の中で笑っていた。馬鹿みたいに。ピエロみたいに。腹の底ではドロドロとヘドロが溜まり、腐臭を放ち続けていた。僕はその臭いを決して外に漏らさぬよう、必死で口を閉じ続けた。つい漏れてしまったときには、屁だと言って誤魔化した。「俺がイライラしてるのは思春期のただの反抗期です」というフリをしたのだ。

このことは、生涯誰にも言えない。腹の底に溜まり続けたヘドロは、この先一体どうなるのだろうか。僕が家で見せている笑顔のうち、一体何割が本心からの笑いなのだろうか。自分でも分からない。家に限らず、日常の全てにおいて、偽りの笑顔と心からの笑顔の区別が付かなくなっている。
死にたい、と積極的には思わないが、生きたいとも積極的には思わない。君のためなら死ねる、という恋愛モノの定番セリフも、僕には意味をなさない。別に見知らぬ子猫のためにでも死んで構わないからだ。死を選ぶのに大それた理由はいらない。空が澄んでいるから、晩飯の唐揚げが旨かったから、夕日が綺麗だったから。それだけで、充分死ぬ理由になる。父の不倫だけではない。何もかもがもう嫌なのだ。ありとあらゆるものが嫌で嫌でたまらないのだ。生きていても全然楽しくない、とは思わないが、かといってそれほど楽しいとも思わない。

そんな僕でも時折、「生きていてよかった」と思う瞬間がある。その一瞬だけで、それまで100回「生きたくないなあ」と思った事実が打ち消される。「生きていてよかった」と思える瞬間が次に訪れるのはいつだろうかと考えながら、僕は生きたくもない毎日を生きている。……なんつって、こんな風にウジウジ考えていたのは今は昔、竹取の翁といふものが野山にまじりて竹を取りつつ万のことにつかっていた時代の話であり、現在ではもうケ・セラ・セラのケ・セラ・セラ、なんくるないさーったらなんくるないさーの精神で、毎日よろしくやっている。というのも、この境地に至ったのには訳があり、それというのも、生きたくない願望がピークに達したある日、「こんな満月見てると、なんか死にたなるよね」と冗談めかして言った僕に対して、交際していた彼女が「やだよ。死なないでよ? 寂しいよ」と真面目に返してきたからなのである。

彼女いるくせに生きたくないってお前クズだな、という批判は一旦置いておいて、僕はその彼女の言葉に、猛烈に感動したのである。僕が死んだところで世界は何にも変わらず回り続けると思っていたし、まあ現にそうだろうが、悲しむ人はいるのだという当たり前の話を、僕はそのときになって初めて気が付いたのだ。

それ以来僕は、「君のためなら死ねる」ではなく、「君のためなら生きていける」と思いながら生きている。……なんつって、ここまで書き終えて僕は、「悲劇のヒロインぶる筈が彼女への甘ったるいラブレターになってもうた。いやそもそも、ヒロインて……。俺男やん。でも、悲劇のヒーローっつうのは何かちゃうしなあ。てか、どうやってこのブログ終わらせたらええんやろ」などと頭を掻きながら悩む羽目になってしまった。だが残念ながらこれといって何も思いつかず、まあこうなれば最終手段だ、ボツにしよう、どうせ誰も読みゃしねえんだよこんなブログ。つって、本稿を削除しようとしたついでに僕はふと窓の外を見た。そんな僕の目に飛び込んできたのは、満月。煌々と照って、ぽつねんと。

日本は右傾化していない

東京書籍の小1向け道徳の教科書のある記述が、文部科学省の検定意見によって変更を強いられた。変更となった題材は『にちようびのさんぽみち』という話で、主人公の少年があまり通ったことのない道を歩き、自分の住む街の新たな魅力を見つける、という、まあいかにも道徳の教科書っぽい内容である。

で、変更前の記述が次の通りだ(原文は平仮名ばかりで読みにくいため、適宜漢字に直している)。

 

良い匂いがしてくるパン屋さん。

「あっ、けんたさん。」

「あれ、たけおさん。」

パン屋さんは、同じ一年生のお友達の家でした。おいしそうなパンを買って、お土産です。

 

これが、「学習指導要領に示す内容(伝統と文化の尊重、国や郷土を愛する態度を学ぶ)に照らし、扱いが不適切」であり、「我が国や郷土の文化と生活に親しみ、愛着を持つことの意義を考えさせる内容になっていない」ため、次のように変更された。

 

甘い匂いのするお菓子屋さん。

「うわあ、いろんな色や形のお菓子があるね。きれいだな。」

「これは、日本のお菓子で、和菓子というんだよ。秋になると、柿や栗の和菓子をつくっているよ。」

お店のお兄さんが教えてくれました。おいしそうな栗のおまんじゅうを買って、大満足。

 

バーカ! という言葉しか見当たらない。

パンが日本に伝来してきたのは安土桃山時代だが、日本人の舌にはなかなか馴染まず、明治維新後も庶民には広まらなかった。そこで木村安兵衛という人がパン屋を創設し、日本人の好みに合ったパンを作ってパンを普及させようとした。そして6年もの歳月を経て作られたのが、「あんパン」である。

西欧のパンと日本の餡を合わせたこの食べ物は評判になり、明治天皇皇后両陛下にも献上された。両陛下はあんパンを気に入り、あんパンは飛躍的に日本人の間に広まった。そしてそれ以降、日本人の口にあった多種多様なパンが作られては広まり、我々日本人は150年以上もパンを食べ続けてきたのである。2011年には、1世帯当たりのパンの購入金額が米のそれを上回ってすらいる。パンは間違いなく、日本人にとって大切な食べ物である。

にもかかわらず! 「国を愛する態度に反する」という馬鹿で愚かな理由で、和菓子屋に変更されたのだ。腹立たしいことこの上ない。

 

しかも、『にちようびのさんぽみち』の挿絵を見ると、登場人物はみんな洋服を着ているのだ。そんなに「日本固有の文化」が好きなら、和服着させとけよ、馬鹿。

 

全国のパン屋はこの変更に猛抗議し、一部ネット民は「抗議するほどのことではない」だの、「変更する方もする方だが、抗議する方もする方。どっちもどっち」だのとほざいている。馬鹿か。

大体僕は、「どっちもどっち」という言葉が嫌いである。揉めている双方の主張を吟味する労力や知能はないが、何か一言言っておきたい。だから、「どっちもどっち」などと言うのだ。それさえ言えば、あたかも自分が上の立場にいる賢い人間のように見えるからである。うっせえよ、バーカ。

 

日本は遥か昔から他国の様々な文化を輸入し、自国の文化や風土を織り交ぜて洗練し、発展させてきた。他国の文化を大量に受け入れてきたことは何ら恥ずべきことではない。いやむしろ、それらに日本の色をつけて独自に発展させてきたことは誇ってすらいい話である。

起源は外国だとしても、現在日本で食べられているパンは日本の文化なのだ。ラーメンもまた然り。

だが馬鹿な文部科学省は、そんなことを考えはしない。「愛国! 日本の伝統! 日本の文化!」という薄っぺらな思想のもと、「日本の伝統といえば和菓子だ! パンは違う!」という馬鹿で表面的なイメージを掲げ、パン屋を和菓子屋に変更させる。本当に馬鹿である。

 

今回の教科書変更だけでなく、この手の薄っぺらな愛国観に基づく馬鹿な言動を、最近よく目にする。遠藤周作原作、スコセッシ監督の映画『沈黙』を「反日!」と罵ったりね・笑。

 

昨今、「愛国心」やら「日本らしさ」やらを偉そうに押し付けてくる自称愛国者の方が増えているが、その実、彼らの口にすらそれらは単なる記号でしかない。中身ゼロである。

 

日本は右傾化している、とよく言われているが、そんなことはない。日本は右傾化していない。ただただ、知的退化しているのだ。

悪影響を及ぼす物は規制しよう

小児性愛者が性犯罪を犯すと、漫画・アニメの悪影響が取り沙汰される。現に石原慎太郎元都知事閣下なども、漫画やアニメを嫌い、規制を推進した。

 

そうなのだ。漫画・アニメは誰かしらに悪影響を及ぼすのは間違いないのだから、こんなものジャンジャン規制すればいいのだ。漫画やアニメを生き甲斐にする人間が大勢いることから分かる通り、漫画やアニメは強い影響力を持つ。ならば、誰かしらに悪影響だって与えているはずだ。規制せねばなるまい。

ロリ要素のあるもの。エロやバイオレンスの香りがするもの。こういった作品は、全て規制するべきである。小児性愛者を増やし、性犯罪を増やし、傷害、殺人事件を増やす原因になってしまう。もちろん手塚治虫ジブリも例外ではない。『ドラえもん』のしずかちゃん入浴シーン、『サザエさん』のワカメのパンツなども、不健全極まりない。経済効果など知ったことではない。

漫画・アニメは悪影響を及ぼすのだから、規制するべきである。

 

小説ももちろん規制の対象である。文学、文豪、などという高尚ぶった言葉に惑わされてはいけない。谷崎潤一郎など、あんなものただのエロだ。悪影響を及ぼす。漫画・アニメ同様、ロリ要素のあるもの、エロやバイオレンスの香りがするものは、全て規制しなければなるまい。

 

児童書の中にも、悪影響を及ぼす作品は潜んでいる。『かいけつゾロリ』などその最たる例だ。主人公が悪党であり、しかもそれを美化している。子供が不良に憧れ、将来非行に走る要因である。『かいけつゾロリ』シリーズは、絶版にしなければならない。

 

漫画・アニメ、小説とくれば、当然ドラマ・映画規制の対象だ。名作、などという金メッキを剥がせば、ドラマや映画は殆ど全て不健全である。世界的な賞を獲ろうが知ったことではない。ドラマ・映画は、みんな悪影響を及ぼすのだ。規制せねばなるまい。

 

だいたいフィクションなどというものは、現実に対応出来ない者たちの逃げ道に過ぎない。ありもしない世界に感動してどうするのだ。フィクションが豊かになるにつれ、現実は乏しくなっていく。フィクション作品などがあるから、弱い人間が生まれるのだ。

 

忘れてはならないのが、音楽である。音楽の中にも、不健全で悪影響を及ぼすものが多々ある。

ヘヴィメタル、ロックなどは暴力的であり、悪影響を及ぼす。規制の対象だ。ラップ・ヒップホップは不良の文化を助長している。これも規制だ。甘ったるいJ-POPも規制だ。歌なんぞで恋愛を歌うから、若者が歌だけで満足し、少子化が進むのである。

聞いていいのは、インストゥルメンタルだけである。但し、スカなど野蛮で悪影響を及ぼすものは聞いてはいけない。

 

バラエティ番組悪影響を及ぼす。プロが仕事として行う「イジリ」という概念など、子供に通じるはずがない。イジメを助長するだけだ。規制しなければならない。

そもそも、テレビというものが悪影響を及ぼすものなのだ。CMは不愉快であり、ニュース偏向報道ばかり。不健全極まりない。テレビは、スポーツ中継以外全て規制の対象である。

 

いや、スポーツ悪影響を及ぼしている。サッカーなどはもはや、いかに上手く転んで相手からファールを取るかを競うスポーツであり、嘘つきを生む原因だ。サッカーに限らず、スポーツは往々にしてそういう不健全な側面を持っている。やはり、規制しなければなるまい。

 

次に規制しなければならないのはなんだ。何がある。そうだ、煙草がある。

煙草は健康に悪く、歩きタバコも深刻な問題だ。マナーを守って吸っている人間がいようとも、マナーを守れない人間が一人でもいる限り、煙草は悪影響を及ぼす。煙草は、不良文化の入り口でもあり、やはり不健全だ。規制しなければならない。

 

臭いという意味では、香水、柔軟剤、酒、これらは全て悪影響を及ぼす。酒に至っては、酔っ払いのトラブルが頻発しているから、ますます不健全だ。規制せねばなるまい。

 

まだ残っているのは何だ。 どんどん規制しよう。落語、歌舞伎、浄瑠璃、能、狂言、歌劇、演劇……。フィクション文化は根こそぎ規制しよう。どうせ叩けば埃が出るのだ。悪影響を及ぼす要因の一つや二つ、あるに決まっている。

 

もっと言えば、そもそも娯楽などというもの自体が不健全であり、悪影響を及ぼすのだ。権利だ、自由だ、娯楽だ、などと叫ぶ人間が増えたから、日本はどんどん沈没していってるのだ。

汗水流して働き、働き、働き、働く。結婚し、家庭を持ち、友人を持ち、そういった人々との交流だけを楽しみとし、また働いて、また働く。これこそが、人間の健全な姿である。

 

文化も伝統も正論も理屈も、知ったことではない。不健全なものは、不健全なのだ。悪影響を受けて酷い行動をする人間が悪いのではない。悪影響を及ぼす可能性が少しでもあるものを、発信する方が悪いのだ。

人々に悪影響を及ぼし得る不健全なものを完全に規制し、健全な社会を作ることが求められる。個人レベルでの権利や自由・幸福など小さな問題であり、大きな視点で社会を見たときに健全であることが、何よりも大切なのだ。

悪影響を及ぼす物は規制しよう。全て、残らず、完璧に。その先にはきっと、不健全なほど健全な社会が待っているはずだ。

神経質な描線の闇〜エドワード・ゴーリー

僕は、エドワード・ゴーリーという絵本作家のファンだ。何冊も彼の著作を持っているし、原画展にも足を運んだ。

エドワード・ゴーリーは、細い描線を神経質なまでに書き込み、重ねていくことで、闇を浮かび上がる。このとは、文字通り光の加減によって物体に生じる陰影のことでもあり、同時に、人間やこの世界に潜む狂気・恐怖・不条理のことでもある。

 

たとえば『ギャシュリークラムのちびっ子たち または 遠出のあとで』という作品は、A〜Zまでのアルファベットを名前の頭文字に持つ26人の子供達が、それぞれ多種多様な死を遂げる場面を描いている。

だがこの作品は、何か悪いことをした子供達がバツを受けて死んでしまう、といった教訓話ではない。かといって、子供達の死を残虐に描いて愉しむというサディスティックな作品でもない。

ゴーリーはただ単純に、を描いているに過ぎない。過激さや不謹慎な衒いではなく、ひたすら冷たく軽やかに子供達の死を描いているだけなのだ。冷たさと軽さこそが死の本質であり、それを絵本として描くことで、ゴーリー死の不条理=闇を鮮やかに浮かび上がらせたのである。

 

同様にゴーリーは、『不幸な子供』ではタイトルの通り不幸という不条理=闇を、『おぞましい二人』では人を殺す人間の狂気=闇を、『蟲の神』では少女の死という不条理=闇を、『ウエスト・ウイング』では得体の知れない恐怖=闇を、まざまざと浮かび上がらせている。

 

これらの闇は、我々の日常の中に当然のごとく潜んでおり、決して切り離すことは出来ない。だからこそ人々は、ゴーリーの描く絵本に強く惹かれるのである。

じっとり・『人魚伝』

中学三年生のときに『壁』を読んで以来、僕は安部公房のファンなのだが、その最高傑作といえば、砂の女』『箱男そして『人魚伝』のうちのいずれかであろう、と個人的には思う。

 

沈没船の調査をしていた「ぼく」は、船内で美しい人魚と出会う。歯以外は全て緑色の、人間そっくりな人魚。彼女に心奪われた「ぼく」は、彼女と共に暮らしたいという願望を抱き……。

 

エロスホラーの肝は、チラリズムであると僕は思う。全裸の女が明るい照明の下で立っているよりも、薄暗い部屋でスカートの中が見えないギリギリのラインを突いて足を組み替える女の方が、遥かにエロい。怪物が姿を現し主人公を追い掛ける映像よりも、主人公が暗闇の中で身を潜め、周囲の木々が風に揺らされて音を立てている映像の方が、遥かに観ている者の恐怖を駆り立てる。

 

まさに『人魚伝』は、このチラリズムが効いた作品である。人魚との性的交渉を描写したシーンは一切ないにもかかわらず、本作は途轍もなくエロいのだ。じっとりとしたエロスが、作品に備わっているのである。

また本作は、詳細は割愛するが、じっとりとした不安や恐怖を感じさせる、ホラー小説のような趣も併せ持っている。じわりじわりと読者の不安を煽るその展開にも、チラリズムが見え隠れしている(微妙に重複表現ですね、すみません)。

 

乾いた文体や作風の多い安部公房だが、『人魚伝』は、全体的にじっとりとした印象を抱く作品だ。

『人魚伝』の纏う"じっとり"としたエロスや不安感はまるで、じっとりとした人魚の皮膚と呼応しているかのようである。

 

本作へのこれ以上の言及、ストーリー解説は無粋である。『人魚伝』は、新潮社から刊行されている短編集『無関係な死・時の壁』に収録されているので、是非とも購入し、ご自分の目で読んで確かめて頂きたい。

表題作の『時の壁』はイマイチですが、『人魚伝』を読むためだけでも、買う価値アリの一冊です。

愛か狂気か・『ジャズ大名』『セッション』

『ラ・ラ・ランド』を観た。評判は賛否両論に別れているらしく、僕も、ミュージカルだからという理由では片付けられない「細部の曖昧さ」が気になったものの、結論としてはやはり面白かった。

 

僕はチャゼル監督の前作『セッション』も劇場で観たのだが、総合的な面白さでは『ラ・ラ・ランド』が上、一瞬の爆発力では『セッション』が上であった。

『セッション』を観た僕が感情を爆発させたのは、観た方なら分かると思うが、ラスト9分19秒の演奏シーンである。というかまあ、『セッション』の宣伝文句が「ラスト9分19秒--映画史が塗り替えられる」でしたからね。

 

(余談だが、映画にしろ小説にしろ、この「衝撃のラスト」推し、やめて頂きたい。ずっとストレートを打ってきている相手が突然アッパーを浴びせてくるからこそ、脳がクラクラッと揺れ、ノックアウトされるのである。試合前に「3発ストレート放ってからのアッパーがオレの得意技なんすよ」と相手に教えるボクサーが、一体何処にいるというのだ)

 

閑話休題、さて本題。映画『セッション』は、原題を『Whiplash』という。意味は「鞭で打つこと/ギョッとすること」であり、映画を観たあとでは、言い得て妙なタイトルだと唸らされるのだが、これを何故『セッション』という邦題に変えてしまったのだろうか。だってこの映画、全然セッションしていないのだ。

 

若手ジャズドラマー志望・ニーマン君は、名門音大に入学する。彼はJ.K.シモンズ演じる鬼ジャズ先生・フレッチャーから、「うちのバンドへおいで」と誘われ、練習に参加することに。

だが、その練習はまさに地獄。フレッチャーは、ハートマン軍曹も真っ青になるほどのありとあらゆる罵倒を、バンドメンバーに浴びせ続けるのだ。もちろん、初参加のニーマン君もその洗礼をバッチリ受けることとなる。

フレッチャーに「Not My Fuckin' Tempo!」と怒鳴り散らされ、椅子を投げられ、ビンタまでも喰らったニーマン君は、必死で、もう超必死で、それこそ手から血が出てもめげずに、ドラムを叩き続ける。

 

ジャズ関係者、ジャズ愛好家は、こんなものはジャズではない、愛がないと批判している。その通りだ。

『セッション』は、『ジャズ版・巨人の星なのである。「俺の理想のテンポと違う!」とフレッチャーに激怒され、ニーマン君は壊れた玩具のようにドラムを高速で叩き続けるのだが、これは差し詰め星飛雄馬の大リーグボール養成ギプスだ。合理性やリアリティは二の次で、インパクト重視である。「そんなギプスでちゃんと筋肉付くの? もっと効果的な筋トレ方法ないの?」という指摘は無意味であり、高校生がガッチガチのギプスを付けられ、満足にご飯も食べられず苦しむという強烈な絵面にこそ、意味がある。

『セッション』も同様であり、僕のような素人でさえ「そんなアホみたいにドラム叩かなアカンの?」と思ってしまうが、これでいいのだ。J.K.シモンズに怒鳴られた白人の若者ドラマーが、半ベソで狂ったようにドラムを叩く。この絵面こそが面白いのである。

 

 ニーマン君はフレッチャーにその腕を認められていく一方、俗的な価値観を持った親戚からはジャズを軽視され、鬱屈とした気持ちを募らせていく。フレッチャーが自分より下手なドラマーを褒めたことに腹を立て、ニーマン君はますます狂ったようにドラムに打ち込み、ドラムのために恋人とも別れる。そんな頑張りが認められたのか、ニーマン君は次回のコンペティションのメンバーに選ばれる。

だが、迎えたコンペティション当日。会場に向かうニーマン君は交通事故に巻き込まれ、血塗れの大怪我を負ってしまう。ニーマン君はどうにか会場に辿り着き演奏を遂げようとするが、怪我のせいでその演奏は惨憺たるものであった。フレッチャーはニーマン君に「お前は終わりだ」と告げる。ついに堪忍袋の尾が切れたニーマン君はフレッチャーに殴りかかり、退学処分を受けてしまう。

その後ニーマン君は匿名でフレッチャーの体罰を告発し、結果、フレッチャーは音楽学校を追いやられた。

数ヶ月後、穏やかだが物足りない生活を送っていたニーマン君は、ジャズクラブでピアノを弾くフレッチャーに遭遇する。フレッチャーとニーマン君はそこで初めて、酒を酌み交わす。フレッチャーはかつての鬼のような表情とは打って変わり、柔和な態度でニーマン君に語る。

「誰かはわからない密告者のせいで、自分は学校を追いやられてしまった。だが私が学生を殴ったのは、彼らにジャズ界の伝説になってほしいと願っていたからだ」「生ぬるい演奏を上出来だと褒め、彼らの才能を潰すことのほうが悲劇だ」

そしてフレッチャーは、「今度開催される権威あるジャズフェスティバルで自分が指揮棒を振るうこと、そのバンドのドラマーをニーマン君に務めて欲しいと思っていること、曲目、曲順は、ニーマン君在籍時のバンドと同じであること」を告げた。ニーマン君は悩んだ末、この誘いを引き受ける。

振った恋人に「見に来て欲しい」と連絡したニーマン君だったが、彼女には既に新しい恋人がいた。

そしてフェスティバル当日。演奏が始まる寸前、フレッチャーがニーマン君に冷たく言い放つ。

「知ってるぞ、密告者はお前だな」

そして始まった曲は、ニーマン君が聞かされていた「Whiplash」ではなく、「Upswingin'」という全く別の曲だった。ニーマン君は「Upswingin'」の楽譜を持っていない。何とかアドリブで付いていこうとするが、そんなことが出来る筈もなく、ニーマン君は酷いドラムを叩く羽目になる。フェスティバルにはスカウトマンらジャズ関係者が多く集っており、そこでの致命的なミスは、ジャズマン生命の終わりを意味している。

希望を抱いて名門音楽学校に入り、恋人を捨ててまで一流のジャズドラマーを目指したが、挫折し、情熱を失ったニーマン君。今回偶然訪れた再チャンスを掴もうと、新たな希望を抱いたニーマン君。その希望はたった今、無惨にも潰えた。フレッチャーの手によって、故意に。茫然、唖然、呆然。

フレッチャーは、ニーマン君が密告者だと知っていたのだ。フレッチャーはそんなニーマン君が許さず、自分が指揮を振るうステージを台無しにしてまで、彼に復讐をしようとした。そして、その復讐は遂げられた。

ステージを去るニーマン君。舞台袖では、父親が待っていた。「お前はよくやった」と父親に抱き締められるニーマン君。が、突如として彼は踵を返し、ステージへと戻っていく。

そして、ラスト9分19秒が始まる。

戻ってきたニーマンにちらと目を向けたフレッチャーが客席に向かって「次はゆったりした曲を」と告げた瞬間、ニーマンがドラマを叩き始める。ゆったりではなく、猛烈なテンポで炸裂するドラム。目を見張る他の奏者達。フレッチャーはニーマンに近付き、「目玉を抉るぞ!」と激怒するが、ニーマンはスティックでシンバルを叩き付け、それを跳ね除ける。

そしてニーマンの合図によって、演奏が始まる。この瞬間バンドの指揮棒を振るっていたのは、間違いなくニーマンである。曲は、ジャズのスタンダードナンバー「Caravan」。演奏が始まってしまった手前、フレッチャーは指揮をせざるを得なくなるが、「お前を殺す」とニーマンに囁くことは忘れない。

しかし、フレッチャーは演奏の途中で気付く。ニーマンのドラムに狂気が宿っていることを。それに引き摺られ、バンド全体が格別の演奏をしてしまっていることを。ニーマンへの憎しみとニーマンのドラムへの感嘆を同時に抱くフレッチャー。そんなフレッチャーの表情は、いつしか歓喜に満ちたものとなっている。

そして最高の状態のまま、フレッチャーは「Caravan」の演奏を終える。と思いきや、フレッチャーの指揮を無視し、ニーマンはドラムを叩き続ける。ニーマンのドラムソロの始まりである。

恍惚の表情から一転、怪訝な顔でニーマンに近付くフレッチャー。「僕が合図する!」と告げるニーマン。ニーマンを見つめ、フレッチャーは言葉を飲み込む。

ニーマンは、ドラムを叩き続ける。叩く。叩く。叩く。叩く。叩く。叩く。叩く。叩く。観客に対して怒濤のごとく押し寄せるドラムの音。 

フレッチャーはニーマンの目の前で頷きつつ、手振りで指示を出す。あまりにも凄まじいニーマンのドラムによって倒れかけたシンバルを、フレッチャーが無言で素早く立て直す。

そして、ニーマンのドラムが極限まで達した一瞬、スクリーンは無音になり、ニーマンとフレッチャーは目を合わせる。頷くフレッチャー。薄く笑みを浮かべるニーマン。再びスクリーンに音が戻り、ニーマンの鬼気迫るドラムを管楽器が追従し始めた瞬間、スクリーンは暗転し、エンドロールが始まる。

 

先ほど『セッション』は『巨人の星』だと述べたが、同時にスティーブン・キングの名作小説『シャイニング』でもある。
『シャイニング』は、心に多少の闇を抱えた男が、幽霊ホテルと酒によって狂人になっていく過程を描いた、ホラー小説の金字塔だ。

一見真面目なジャズ映画に見える『セッション』も実はジャズ映画ではなく、『シャイニング』同様、一人の青年が狂気の渦に飲み込まれていく過程を描いた映画である。

フレッチャーは、「一流のジャズミュージシャンを輩出するために行き過ぎた指導をしてしまうものの、ジャズのことは愛して止まない、愛に満ちた人物」などではない。ニーマン君を狂気という名の深淵へ引き摺り込む、紛うことなき狂人だ。星一徹よりよっぽど酷い、ホテルに棲みつく幽霊だ。彼にも、「Caravan」の後のドラムソロにも、愛はない。あるのは狂気だけだ。だが、それもいいではないか。ニーマンの最後の笑顔を見ると、そう思わされてしまう。

 

『セッション』のラストの演奏は、狂人だけが到達し、理解することの出来る、狂気に満ちた対話である。

 

一方、真面目なジャズ映画でないように見えて、実はジャズの愉しさを強烈に味わわせる作品もある。「原作・筒井康隆/監督・岡本喜八」の1986年公開映画、ジャズ大名である。

『セッション』の感想に文字数を割きすぎたため、『ジャズ大名』のストーリーや感想は割愛するが、こちらも素晴らしい傑作である。筒井康隆の原作小説を超えている(テーマが音楽である以上やむを得ないが)。

ジャズ大名』のラストシーンも、『セッション』同様、ジャズ演奏である。が、こちらの演奏は愛に満ちている。これはジャズと言えるのか、と思うような楽器や道具が登場するが、そんなことは些細なことである。ジャズ大名』という作品の魂こそ、ジャズなのだ。

 

愛か狂気か。対照的な二作品ですが、お暇なときにでも是非、併せてご覧されたし。

ナンシー関は死にました

「もしナンシー関が生きていたら、ズバッと斬ってくれたのになあ」

昨今のテレビ番組を批判したい人が、しばしば使う言葉である。「小林秀雄が生きていたら……」「淀川長治が生きていたら……」などという意見は目にしないが、「ナンシー関が生きていたら……」という表現はやたらと目にする。

僕はこの「ナンシー関が生きていたら……」があまり好きではない。

 

僕が3歳の頃にナンシー関さんは逝去したため、僕はナンシー関という人の凄さをリアルタイムでは知らない。しかし何冊か著作を読み、独特の切り口、悪意とユーモアに満ちた消しゴム版画、舌鋒鋭い文体など、なるほど凄い人だと思わず唸らされた。

だから、「ナンシー関がもし生きていたら、この芸人、このテレビをどう評価しただろうか」という純粋な興味を抱くのは分かる。ただ、ナンシー関という名前を「自分が気に食わないテレビや芸人、タレントを批判する道具」に使うのは、どうも納得できない。

 

テレビが面白くないと思うなら、自分の力で批判すればいいではないか。

SNSの発達により、今や一億総批評家社会である。自分の意見を、我々一般人も簡単に発信できる世の中なのだ。Twitterやブログで「この番組つまらないなあ。ああ、ナンシー関が生きてたら、ズバッと斬ってくれたのに……」と書き込むくらいなら、「この番組は〇〇だからつまらない」と自分の頭で考えた感想を、自分の言葉で述べればいい。大袈裟かもしれないが、自分の言葉で自分の意見を述べることこそ、人間としての尊厳である。

 

もしもナンシー関が生きてたら、もしもナンシー関が生きてたら、などという意見はもう見飽きた。聞き飽きた。 ナンシー関はもう死んでいる。