嫌々爺日記

日頃の愚痴か、エンタメ作品の感想か……

「主人」という言葉とフェミニスト

2017年3月6日、(僕の好きな)作家の川上未映子氏が、朝日新聞デジタルに「主人」や「嫁」という言葉は賞味期限というコラムを寄稿した。川上氏は以前にも、日経DUALという媒体で「主人」という言葉が心底嫌いというコラムを載せている。

以下、「主人」という言葉が心底嫌いより、一部抜粋である(全文読みたい方は検索を)。

 

わたしは「主人」アレルギー。この言葉を聞くと、いらっとして、本当にぐったりしてしまう。たとえばママ友なんかが、自分の夫をすごく当然のことのように「主人」と言うのを聞くと、あるいは相手の伴侶のことを「ご主人は」なんて言うのを聞くと、もう本当に、これが心の底から気が滅入るのである。

「主人」というのは従属関係を示す言葉で、自分が相手より劣った存在である、身分の低い存在であるということを表す言葉だ。

もちろん言葉というのは生き物で、「そういう主従とか関係ない感じで、たんに、カジュアルに使ってるんじゃないの」というのも理解できる。 

ふだんから無意識に「主人、主人」なんて言ってると、知らないうちに奴隷根性がすりこまれて、ここ一番というときに自立心が発揮できなくなる気がする。 

嫁ってなんだよ、偉そうに。夫のことを指す「主人」も、妻のことを指す「嫁」も、差別用語として広く認識されればいいとわたしは真剣に思っている。

嫁という言葉は個人との関係を示す言葉ではなく、言うまでもなく家を中心にした言葉。

たとえば自分の妻のことを嬉しそうに「嫁」と言った瞬間、わたしのなかでその男性の知性は最低ランク、さらに枠外に落ちて、金輪際、まともに話を聞く気も失せる。

自分の配偶者のことは「夫」でいいじゃないですか。旦那も主人もやめようよ。そして夫は「妻」と呼びましょうよ。あるいは、名字で呼びましょうよ。名前で呼びましょうよ。そして相手の配偶者のことは◯◯さんって、名前で呼ぶことにしましょうよ……。

小さなことだけど、そうやって毎日使う身近な言葉から、子育ての関係性や夫婦間のバランスが変わっていくこと、本当にあるんだもの。

 

続いて、「主人」や「嫁」という言葉は賞味期限より一部抜粋。

 

「配偶者に主人や嫁という言葉を使うのはやめよう」とコラムで書きました。パートナーとは対等な関係であるべきなのに、なぜ主従関係や属性を表す言葉がいまだにこんなに使われているのか、と。

「呼び方なんてたいした問題じゃない」と言う人もいる。でも言葉って本当に大事。

 

まず最初に、言葉を大事だと思うなら、たとえ比喩であれ、「主人」という言葉が心底嫌いであるという気持ちを、「主人」“アレルギー”とは表現して欲しくなかった。 

川上氏が「主人」という言葉を差別用語として認識していようと、言ってしまえばそれは、好き嫌いの問題の範疇である。が、アレルギーは、本人の好き嫌いに関わらず起こるものであり、死の危険すらある。それを「大っ嫌いなもの」程度の比喩として用いてしまったのは、返す返すも残念でならない。

抜粋はしなかったが、川上氏は当該コラムにて「女は女らしく。女はか弱いもの。女は男に従うもの」という時代錯誤でアホな言説を批判している。全くもって同意だ。が、「アレルギーは好き嫌いの同義語」というのもまた、アホな考えであろう。アレルギーは甘えだ、などと抜かす馬鹿は、川上氏の「主人」アレルギーという比喩を見て、またアレルギーを見くびるかもしれない。

「主人」という言葉が男尊女卑を促すと主張するなら、「主人」アレルギーという比喩が、アレルギー軽視を促す危険性も考慮していただきたかった。

 

で、本題なのだが、本来の意味がどうであったかはともかく、イマドキ「主人」なんて言葉が従属関係を示すとは到底思えない。同様に、「嫁」が差別用語とも思えない。

「うちの主人、ホンマ頼りないわあ」

「情け無いわあ、うちの主人

という言葉は至る所で聞くし、

さんにはもう頭が上がらなくて。尻に敷かれっぱなしですよ」

 という言葉も至る所で耳にする。どうだろう? 主人という言葉に、男尊女卑要素、女性差別要素はあるだろうか? 

 

もはや、主人という言葉に威厳はない。学校の先生が「センセー」に成り下がったのと同様、「主人」は今や「シュジン」である。言い易いから使っているに過ぎない。

そして、川上氏自身それは分かっているのだ。何故ならコラムの中盤で、もちろん言葉というのは生き物で、「そういう主従とか関係ない感じで、たんに、カジュアルに使ってるんじゃないの」というのも理解できる。と記しているからだ。ならば、川上氏が個人的に「主人」という言葉を使わなければいいだけの話である。「配偶者に主人や嫁という言葉を使うのはやめよう」などとコラムに書き、押し付ける必要はない。否、押し付けてはいけない。

 

川上氏は、日本ではなぜか否定的にとらえられることがあるけれど、私はフェミニストと述べているのだが、日本でフェミニストが否定的に捉えられるのは、自らの思想を押し付ける人がフェミニストを自称する人に多いからである。

プライスレスな言葉の宝石箱・『中原中也詩集』

「詩」というジャンルにそれほど明るい訳ではないが、一番好きな詩人は誰かと問われれば、僕は躊躇なく中原中也と答える。中原中也の詩集は複数の出版社から刊行されているが、オススメは、ハルキ文庫から出ている『中原中也詩集』である。

 

まず、北見隆による装画が良い。

髪の長い女性がスカートの裾を持ち上げながら立ち、無表情のまま虚空を見つめている。足首から下は水に浸かり、彼女の背中からは天使の翼が生えている。

中原中也の詩を読むと喜怒哀楽の型には押し込められない不安定な感情が湧き上がるのだが、北見隆の装画を見て抱く感情は、中也の詩を読んで抱く感情と、深い底の方で繋がっているように思われる。

 

収録されている作品は、自作詩80篇、短歌25首、翻訳詩9篇、中也の書いた評論、日記、書簡である。残念ながら、これらの作品がいかに素晴らしいかを説明するには、僕の語彙力と表現力ではあまりにも力不足だ。何より、詩を読むとは「味わう」ということであり、文字通り、食事に近い。和食の繊細な美味しさを知ってもらうには、いくら多言を費やしても効果は薄い。実際に食べてもらわねば分からないのだ。詩も同様であり、読むことでしか味わえない。だから、ここで中原中也の詩に具体的に言及するのは避けようと思う。

 

また、詩の解説をしないのにはもう一つ理由がある。というのも、文芸評論家・樋口覚による本書解説が素晴らし過ぎるのだ。

読者は中也の詩を感性で味わうが、樋口覚の解説は、中也の詩の凄さを読者に理性的に訴えながら、同時に、読者の感性をも揺さぶる。

優れた評論とはそれ自体が作品たり得るものだが、中也の詩に用いられる言葉の機能性や詩に込められた中也の想いを美しく硬派な文体で綴る樋口氏の解説は、まさしく中原中也の詩と生涯に迫った一つの作品である。

 

そして最後に、町田康が寄稿した僅か5ページのエッセイ。僕はこのエッセイを読んだだけで、「この人の小説は傑作に決まってる」と断定し、町田康の小説を買い漁ったのであるが、それほどにこのエッセイは面白い。

筒井康隆は、町田康の短編小説「くっすん大黒」を鑑舌体や会話の関西的な軽さは、文学的とされる表現からの意図的な遠ざかりであり、下品になるすれすれのところで辛うじて身を翻すところに、作者の美学がある一線でしっかりと守られていることを示しています」と評したが、このエッセイからもその美学の片鱗を窺い知ることができる。

町田康のエッセイは、中原中也という詩人のパワーを感じさせるものである。『ゴッドファーザーPART2』のラストで、観客がマーロン・ブランドの存在を色濃く感じ取るのに近いかもしれない。多分、この比喩は伝わらないと思うが。

 

一流の装幀が施され、一流の詩人の詩が並び、その解説を一流の文芸評論家がし、巻末には一流の小説家のエッセイが載っている。これでたったの680円(税別)。買わない理由が全く無い。

是非購入し、中原中也の詩を味わい尽くしていただきたいです。

黙祷の重み

3月11日に、僕は黙祷を捧げない。東日本大震災で亡くなった人の中に、僕の知っている人はいないからだ。だが日本では、日本人は3月11日に当然黙祷を捧げる筈だ、という空気が存在する。黙祷を捧げない者は心が無く、非国民かのような空気が、依然として存在する。

災害で亡くなった面識のない者に黙祷を捧げられる人が、僕には理解出来ない。悪いとは言わないが、なぜ黙祷を捧げられるのかが、分からない。黙祷の最中、一体何を考えているのだろうか。

 

沈黙の中でひたすら死者を弔い、死者に対する自分の声を聞く時間が、黙祷である。愛する人の死を嘆き、その人との思い出を慈しみ、その人と出逢えたことを感謝し、その人との別れを悲しむ。黙祷とは須らくそういう時間であるべきだと、僕は思う。

では、犠牲者の名前も顔も知らない状態で、どのように黙祷を捧げるというのだろうか。

 

例外的に、戦死した先祖に黙祷を捧げるというのは理解出来る。名前や顔を知らなくとも、「戦争によって命を奪われた日本人の死屍累々の上に今の日本がある」というのは事実であり、日本に住む者としてその死に感謝し、黙祷を捧げるというのは、至極当然の理屈であろう。

 

だが、災害は違う。日本で起こり、大勢の人が亡くなった痛ましい災害であろうと、その犠牲者が知らない人ばかりならば、黙祷を捧げようがないと僕は思うのだ。

 

意地悪いことを言うが、犠牲者の中に知っている人がいないのに3月11日に黙祷を捧げる人は、1月17日にも黙祷を捧げるのだろうか。9月14日はどうだろうか。5月26日は? 6月3日は? 9月27日は? 10月4日は? 12月17日は?

これらは全て、1980年以降、死者の出た災害が日本で起きた日付である。3月11日に黙祷を捧げる人は、これらの日にも黙祷を捧げているのだろうか。恐らく、捧げていないだろう。何故なら、覚えていないからだ。何故覚えていないのか? それは、死者数がそれほど多くないからだ。

 

もう一つ意地悪いことを言うと、日本以外の国で起きた災害の死者にも、きちんと黙祷を捧げているのだろうか。日本人の死を弔うように、外国人の死も弔っているのだろうか。

 

大勢の日本人が死んだ災害だから、黙祷を捧げる。この考え方は、危険である。

まあ、「外国人の死はどうでもいい。同じ日本人の死は悲しい」というのは僕には理解出来ないが、まだ百歩譲っていいとしよう。

だが、大勢死んだから黙祷を捧げるというのは、間違った考えだ。

ニュースで「この災害の死者は1万人です」という風に報じられるため我々は勘違いしそうになるが、1万人が死ぬという出来事が1件起きたのではない。1人の人間が死ぬという悲惨な出来事が、1万件起きたのである。

死者数によって黙祷を捧げている人は、死者を悼んでいるようで、人の死を軽んじてしまっている。

 

犠牲者は知らない人ばかりだが、ニュースで悲惨な映像も見たし、理屈ではなく、3月11日には黙祷を捧げたくなるのだ。その思いで黙祷を捧げる人を、僕は否定しない。

だが、日本人なら3月11日に黙祷を捧げるべきだ、と主張する人は、毎日誰かに黙祷を捧げるべきである。毎日毎日、日本の何処かで同じ日本人が、病気で、事件で、事故で、--東日本大震災で無念の死を遂げた人同様--無念の死を遂げているのだ。数の問題ではないのなら、その日本人のために、毎日毎日黙祷を捧げるべきである。

雑記:小さなモヤモヤ

僕は小さなモヤモヤを大量に抱えて生きている。別に怒るほどでも、誰かに言うほどでもない、小さなモヤモヤである。ザッと列挙していきたい。

 

1.酢豚に入っているパイナップル、に矢鱈とキレる人。何がそんなに気に食わないのだろう。

確かに、よく言われる「酢豚にパイナップルを入れるのは、肉を柔らかくするため」というのは嘘だ。パイナップルにはブロメリンという消化酵素があり、肉を柔らかくする作用があるが、ブロメリンは熱に弱く、加熱すればその効果は失われる。つまり、パイナップルを一緒に炒めて酢豚を作っても、肉は柔らかくならない(パイナップル果汁に漬けた肉で酢豚を作れば、柔らかい酢豚が出来るだろうが)。

しかし、別にいいではないか。シュウマイの上のグリーンピースやポテトサラダの中のリンゴなど、「コレいらんやろ」と思うものはよくある。が、これらにキレている人は、それほどいない。それにそもそも、酢豚の中のパイナップルが嫌いならば、残せばいいだけの話である。

青筋を立てて「酢豚のパイナップル許されへんっ!」と声を荒げる芸人のトークや、「俺には、絶対に許せないものが三つある。一つ目は酢豚に入っているパイナップル。二つ目は時間にルーズな奴。そして三つ目は、仲間を傷つける奴だっ!」みたいなフィクション作品のワンシーンを見る度に、酢豚のパイナップルが何故これほど彼らの憎悪を駆り立てるのだろうかと、僕は疑問を抱く。

これは根拠の無い妄想だが、もしかすると彼らは、「酢豚に入っているパイナップルを批判するのはセンスがある」と思っているのかもしれない。もしそうなら、僕は酢豚のパイナップルを批判している人に、「それって、結構みんな言ってますよ」と伝えたい。

 

 

2.時折いる、「エセ眼鏡っ娘好き/エセ貧乳好き」

眼鏡っ娘好きなんです。眼鏡を掛けてるときと外したときで全然違う雰囲気になるのが好きなんです」とか、「貧乳の女性が好きなんです。貧乳を恥ずかしがったり照れたりしてるのが可愛いんです」とかいう人に言いたいのだが、それはただの「ギャップ萌え」だ。

「お風呂に入るときと寝るとき以外は眼鏡をかけていてください」と願うのが、真の眼鏡っ娘好きというものだ。同様に、「女性が貧乳にコンプレックスを抱いていようが、気にしてなかろうが、何ならチャームポイントとして捉えていようが、とにかく貧乳であるというだけで尊い」と考えるのが、真の貧乳好きなのだ。

 

 

3.いくつになっても「女子会」でいいではないか。

「女子会って、30、40過ぎ女の何処が女子だよ」と言う男性がいるが、別にいいではないか。「アタシらは女子なの。女子扱いして! 子供扱いして! 仕事もしないし家事もしないわ。誰か養って!」などと言っているわけでは勿論なく、服装や言動を女子高生みたいにしている訳でもない。しっかりと働いたり、キチンと家事をこなしたりしている大人の女性が、友達と食事をし、溜まったストレスを発散できる楽しい時間が、「女子会」なのだ。束の間、女性が女子に戻って楽しむことに、一体何の文句があると言うのだ。

「今日は学生時代の友達と女子会でーす」というのは、「今日くらい、女子みたいにはしゃいじゃおう!」という女性の可愛らしい宣言に過ぎず、自分たちを女子と思え、と他者に強要している訳ではない。「女子会」という名称に、僕は何の問題もないと思う。

あと完全に偏見だが、こういうことを言う男性に限って、「日本男児たるもの」と言いそうである。

 

 

4.外国人横綱は侵略者か?

 稀勢の里が19年ぶりの日本出身の日本人横綱になり、話題になった(他国出身の日本人としては、アメリカ出身で日本に帰化した武蔵丸が14年前に横綱になっている)。

素晴らしいことではあるが、一つ気にかかるのが、「ようやく横綱の地位を日本人の手に取り戻した!」 という意見が散見されることである。悪意はないのだろうが、まるで横綱の地位を外国人が不当に奪っていたかのようなこの発言は、外国人横綱や、横綱を目指す外国人力士に失礼であろう。

本当に日頃から相撲に親しみ、相撲を愛している真の好角家ならば、横綱の地位を守り相撲を盛り上げ続けてくれた外国人横綱に対して、敬意を持っているだろう。

この「横綱は日本人であるべき」論を唱えている人は、本当に相撲が好きなのだろうか? モヤモヤする。

 

 

5.アンチに対する「じゃあお前がやってみろ」 というファンの言葉。

ネットの波で泳いでいると、しばしば「この小説買ったがつまらなかった」「この映画ホントゴミ」「薄っぺらい音楽。CD代金返せ」というような文章を見かけ、「自分が作者なら辛いなあ」と思うのだが、かといってそれらの批判コメントに対するファンの反論にも納得がいかない。「じゃあお前がやってみろ」「お前はこれより凄い映画作れるのか?」「出来もしないのなら偉そうなこと言うな」というコメントだ。

恐らく、自分の大好きなクリエイターを批判されたことが悔しく、その人を守ろうとして言っているのだろうが、この発言はむしろプロのクリエイターへの侮辱である。プロはプロとして、我々素人では出来ないことをやろうとしているのだ。その分野において、自分は素人とは格が違うと思いながら、作品を作っているのだ。

 

たとえばあなたが大工だとしよう。依頼通りの家を建てたと思ったら、依頼人の男性が不満そうに言った。

「ちょっと思ってたのと違うなあ……。もう少しかっこいい感じかと思ってた」

男性の妻が宥める。

「そういうことを言わないの。あなたの日曜大工よりはよっぽど上手でしょ? 自分で家建てられるようになってから、文句言いなさい」

 

どうだろう? 男性の妻にもちょっと腹が立たないだろうか? 「日曜大工より上手いのは当たり前なんですよ……。私はプロなんだから……」と思わないだろうか。

「お前がやってみろ」というファンの言葉はプロへの侮辱であり、言うべきではない。もし自分でそんなことを口にするクリエイターがいるならば、向いていないから辞めた方がいい。

まあ、そういうこと言うクリエイター、結構いるけどね。

 

 

6.村上春樹ノーベル文学賞

ノーベル文学賞の発表が近付くと、カフェに集い村上春樹の受賞を祈るハルキスト達の映像がニュースで流れる。もうそのうち「ハルキスト」は初冬の季語になるかもしれない。しかし彼ら、本当に村上春樹(作品)を愛しているのだろうか。

当の村上春樹本人は、毎年毎年「村上春樹ノーベル文学賞受賞なるか!?」と報道されることに対して、「わりに迷惑」「正式な候補ではなく、ブックメーカーが予想しているだけ。競馬のオッズじゃあるまいし」といった趣旨の発言をしている。ならば、マスコミが取り上げるのは防げなくとも、せめてハルキスト達だけでも静かにしておくのが、村上春樹のためであろう。

僕はずっとそう思っていたのだが、この前ネットでニュースに映るハルキストのコメントを見て驚いた。曰く、「春樹さんが迷惑がっているのは知っていますが、やはりみんなで集まって受賞を祈りたいんです」

なーんだ。ということはアレである。彼らは一見大人しいが、その本質は、サッカー日本代表の勝利祝いを口実に渋谷で暴れちゃう人々と、同じなのである。

 

 

7.小洒落たバーと安酒と。

「ダーツの出来るお洒落なバーなんて俺みたいな奴は合わねえよ。しゃらくせえ。俺みたいな奴はさ、居酒屋で安酒を呷ってる方が性に合ってるぜ」

という人は結構いるだろう。ただ、これをやたらと強調する人が、僕は苦手だ。「シャレオツなものには馴染めない泥臭い俺」に酔っている感があるのだ。

ラーメンズを批判し、伊集院光愛する人村上春樹を批判し、太宰治愛する人

こういう人の中に時折、「お洒落なものを受け入れないお洒落さ」の演出を感じ取ることがある。

 

 

8.草食系男子、肉食系女子の定義。

 恋愛に消極的な男、草食系男子。恋愛に積極的な女、肉食系女子

いや、意味が分からない。誰が考えたのか知らないが、定義がおかしいだろう。草食系動物は、草を好んで食べる動物だ。本当は肉を食べたいが、積極性がないために競争に勝てず、止むを得ず草を食べているという訳ではない。草食(肉食)動物が草食(肉食)なのは単なる生態であり、積極性は関係ないのである。

本当なら、「物静かな女/男」を好きな人を「草食系男子/女子」と定義し、「明るい女/男」を好きな人を「肉食系男子/女子」と定義するべきである。まあ、草食系男子だの肉食系女子だのという言葉を使うことはないので、どうでもいいのだが。

 

 

9.セクシャルマイノリティを第一のアイデンティティとするオネエタレント。

僕は、他人がどんな性的嗜好を持っていようと、その嗜好によって被害を受ける人がいないのであれば、一切構わない。たとえどんな変態行為をしていようが、それが誰にも実害を与えていないならば、僕には関係ないのでどうでもいい。世の中には、ロリコンは存在そのものが悪だという意見もあるが、その欲求を死ぬまで内に秘め続けているならば、僕は構わないと思っている。

従って、LGBTへの偏見などある筈もない。男が男を好きになるのも、女が女を好きになるのも、自分の肉体的性に違和感を覚えるのも、何らおかしなことではない。

そう思う僕は、テレビでセクシャルマイノリティであることを一番の売りにしているオネエタレントを見ると、不思議に思う。たとえばマツコ・デラックスは、テレビ出演のキッカケは「オネエ」だったとしても、未だにテレビに出まくっているのは、マツコという人そのものが面白いからである。

だが、そこそこテレビで見かけるオネエタレントの中には、セクシャルマイノリティであることを除けば、テレビに出演できるほど特徴のない人が結構いる。自分がセクシャルマイノリティであることを、タレントとしての唯一のアイデンティティとしている人だ。しかもこういうタレントの中には、「ステレオタイプなセクシャルマイノリティ像」を受け入れ、演じている人もいる。

僕はそういうタレントを見るたび、それでいいのか? とモヤモヤしてしまう。

 

 

10.何かを褒めるとき、何かを貶さねば気が済まない、という病。

「山本さんとこのお子さんは、自分から家事の手伝いしてくれるんでしょ? 偉いわあ。それに比べてウチの子は、家でゲームばっかり……」

母親のこういう発言は、ムカつくが理解出来る。この場合母親は、山本さんとこのお子さんを褒めることではなく、ウチの子のダメさを愚痴るのが主目的なのだ。

何かを批判するために、別の優れた何かを持ち出すというのは、その手法のイヤらしさはともかくとして、至って普通である。

だが僕が理解できないのは、何かを褒めるとき、半ば無意識的に別の何かを貶してしまう人々だ。

「最近流行りの××なんかと違って、やっぱ○○はいいなあ。このバンドが売れないなんて、邦楽はやっぱクソだわ。○○最高!」

僕も「このバンドはもっと売れていいだろう」と思うことはしばしばだが、それを言う際、わざわざ売れている他のミュージシャンを持ち出す必要はない。そんなファンのコメントを見ると、そのバンドまでダサく思えてしまう。

何かを褒めるときは、たたその凄さを語ることだけに終始すべきである。

 

(蛇足) この手のコメントはYouTubeのコメント欄に異常に多い。そこで、僕は一度調べてみることにした。

「××なんかと違って、○○は最高!」というコメントを見つけると、その××の動画に行き、コメント欄を見る。そこでまた「△△なんかと違って、××最高!」というコメントを見つけると、今度は△△の動画のコメント欄を見る。

これを繰り返し、最終的に行き着いたアーティストが、YouTubeのコメント欄に巣食う音楽通の方々にとっての最下層アーティストである。

そして調査の結果、そういうアーティストは二組に絞られた。AKB48EXILEである。

この二組は、頻繁に比較対象として名前を挙げられている。だが、この二組の動画のコメント欄には、「○○なんかと違ってAKB48(EXILE)は最高だ!」というようなコメントは、見当たらなかった。

さて、調査を終えて僕は思った。他のアーティストを貶さず、自分の好きなメンバーへの愛を語っているだけのAKB48ファンやEXILEファンの方が遥かに健全であり、真のファンと言えるのではないか、と。

真実とはなんぞや

あなたは騒音おばさんを覚えておられるだろうか? 大音量で音楽をかけ、布団叩きで干している布団をリズミカルに奏でながら、「引越ーしぃっ!引越ーしぃっ! さっさと引越ーしぃっ! シバくぞっ!」という罵声を近隣住民に浴びせ続け、睡眠障害を負わせたとして、傷害罪で逮捕された女性である。懲役は1年8ヶ月。騒音おばさんの叫ぶ映像は、言っちゃあ悪いが面白く、そのせいでバラエティ番組は彼女をオモチャにした。

 

さて、騒音おばさんを当時は世間の誰もが「ヤバイ人」と思ったが、実はこの事件には闇に葬られた真実が存在する、という説が、いつからかネット上で流布されるようになった。ネットで広まっている騒音おばさんの真実」とは、次のようなものである。

 

騒音おばさんは若い頃、障害者であることを知らされずに、ある男性と見合い結婚をさせられた。その障害は遺伝性であり、子供が三人生まれたが、三人ともその障害を負っていた。娘二人は亡くなり、夫も入院したため、騒音おばさんは息子と二人暮らしをしていた。

そんなある日、1組の老夫婦が隣に引っ越してくる。この夫婦こそ、のちに騒音おばさんを訴えた「被害者」である。彼らは創価学会の熱心な信者であり、騒音おばさんにも創価学会入信を勧めた。だが騒音おばさんがそれを断ったため、老夫婦は報復として壮絶な嫌がらせを始めた。騒音おばさんは、嫌がらせへの対抗手段として「引越ーしぃっ!」を始めたのだ。

だが創価学会に支配された警察とマスゴミは老夫婦の非を揉み消し、騒音おばさんを異常者へと仕立てあげたのであった。騒音おばさんは、ハンデを抱えながらも創価学会に一人毅然として立ち向かった、英雄なのである。

 

いやあ、怖いですねえ……。何が怖いって、これを紛れもない真実だと信じて疑わない人が大勢いるという事実が、である。

いくら検索しても、「騒音おばさんの真実」の信頼出来るソースは、見当たらない。誰が書いたか分からない2chの書き込み、それを取り上げた個人ブログ、まとめサイトばかりである。老夫婦が創価学会の信者であったことを示すソースすら、見当たらない。本当に、「騒音おばさんの真実」が事実であるという証拠は、全くないのである。火のないところに煙は立たない、などと得意げに言う人もいるが、世の中には、火のないところに発煙筒を設置していく輩が大勢いるのだ。

 

しかし、何故この根拠薄弱な真実(デマとは言わないでおこう)が、確固たる事実としてネット上で広まっているのか。答えは簡単である。「みんながそう信じているから」だ。この「みんな」は、ネット上のみんなのことである。情報操作されたテレビなどには騙されない、ネット上の情報強者のみんな。創価学会などという憎むべきカルト教団には負けない、正義の心を持ったみんな。

テレビは情報操作されているから信じては駄目だと声高に叫びながら、ネットの誰が書いたとも知れない書き込みを鵜呑みにする。「創価学会は悪い。創価学会が悪い。マスコミはマスゴミだ。騒音おばさんは被害者なんだ。隠蔽された。闇に葬られた。みんなそう言っている。創価学会はカルトだ。許してはならない。テレビも警察もクソだ。騒音おばさんは被害者だ」

この「みんな」 の方こそ、よっぽどカルトだと思うのは、僕だけであろうか。

 

騒音おばさんの真実」を信じている人は、二種類に分けられる。一種類目は、騒音おばさんの真実」が本当に事実に見える人である。彼らのブログの「騒音おばさんの真実」以外の記事を読むと、「集団ストーカーの被害を受けている」「電磁波攻撃を受けている」を始め、多種多様な陰謀論で埋め尽くされている。言ってしまえば彼らは、何らかの精神病を患っているのではないかと推察される人である。この人達が「騒音おばさんの真実」を信じるのは、ある意味仕方がない。彼らは、丸いものが三角に見えてしまっているのだから。

僕が腹立たしく思うのは、二種類目の人である。丸いものを丸いと見える視力を持っているにもかかわらず、みんなが三角だと言っているからという理由で、その図形を見ずに三角だと断じる人である。誰が作ったかも分からず、ソースも提示していない「騒音おばさんの真実」動画を見て、「今まで騒音おばさんはおかしな人だと思っていましたが、この動画を見て真実を知りました。騒音おばさんを馬鹿にしていた自分が恥ずかしいです。やっぱ警察とマスゴミは最低ですね! 創価学会も許せません」と平気でコメントしてしまう人である。根拠の無い陰謀論でも、「マスゴミ」「電通」「創価学会」など、批判して楽しそうな玩具が並んであれば、そしてみんながその論を支持していれば、その話をすっかり信じてしまう人だ。

 

名探偵コナン」は好きだが、コナン君の決めセリフである「真実はいつも一つ」には賛同出来ない。

大勢の人間の曖昧な記憶や憶測、果ては嘘までをも孕んだ、虚実入り混じった流動体。その巨大な塊を、個人が各々、自分の用意したコップで掬い取る。そのコップの中に入っているものが、真実と呼ばれるものなのだ。

事実は一つだが、真実は一つではない

いっぱい食べる君が好き

僕は、人の食事している姿に興奮を覚える。この「興奮」を性的興奮と捉えるのは些か大袈裟であり、言うなれば、女性が髪をかきあげるのを見たときや、あるいは好きな人と目が合い、ふと微笑みかけてくれたときに抱く程度の、ドキッという興奮のことを指しているのだ。よってこれ以降、性的興奮ととは似て非なるこの小さな感情を、「グッとくる」と表現することとする。

 

グッとくる対象は、基本的に性的対象となり得る女性である。が、不思議なことに、性的対象としては申し分ない美しい女性でも、その食事姿にはグッとこない場合が多々ある。逆に、ギリギリ性的対象の範囲だという女性の食事姿が、かなりグッとくるということもある。このメカニズムは、僕にも分からない。その女性の食事姿にグッとくるか、あるいはこないかは、実際に見てみるまで分からないのだ。

また、ごく稀に男性の食事姿にもグッとくることがある。これは本当に稀であり、女性の場合、グッとくる女性なら何を食べていてもグッとくるのだが、男性の場合、「アレ? この前はグッときたのに、今日の食事姿にはグッとこないな」ということがある。男性の食事姿にグッとくるのは、それほど奇跡的なのだ。

 

さてここで一つ言っておきたいのが、僕がグッとくるのは、あくまでも普通の食事姿である、ということだ。つまり、ご飯をしっかり味わって楽しんでいる姿なのだ。

たとえばグラビアアイドルのビデオなどで頻繁に見られる、アイスやキャンディなど棒状の食べ物をやたらとエロく食べるシーン。あんなものには全く興奮しない。上目遣いでカメラを見つめ、チュパチュパと音を立ててアイスを舐め回す姿を見させられたところで、彼女が舐めているのは所詮アイスなのだ。「何してんの? それアイスやで」と、僕は思わず笑ってしまう。以前、「とんねるず食わず嫌い王決定戦」を見ていたら、壇蜜がみたらし団子を案の定ヤラシイ感じで食べていたが、それも同様で、僕は残念ながらグッとこない。 

世の中には、食事シーンを描いたグルメ漫画やグルメドラマが氾濫している。が、こうした作品の中には、食事シーンを矢鱈とエロく描写するものが多々ある。汗をかき、クチュクチュと咀嚼音を立て、吐息を漏らし、恍惚の表情を浮かべる。

この表現が僕は本当に許せない。なんだ、オナニーでもしてるのか? 飯食ってオルガスムスに達してるのか。アホか。モグモグ食え! 孤独で自由で幸福な営みが食事なのだ。自慰に耽るのとは、全く別種の快感である。混同しないでいただきたい。

 

食事という動物的かつ神聖な行為に、「エロく見せたい」などという不純な考えを持ち込まないでほしい(性的欲求が不純だと言っているのではなく、安易に食事と性を絡めようとする考えが不純なのだ)。エロスに食を持ち込むのは勝手にすればいい。だが、食にエロスを持ち込むのは断固として反対だ。

 

食欲を満たしたい、美味しいものを堪能したいという人間の根源的欲求を満たそうとする純粋な姿こそが美しく、その欲求が満たされたときの煌めきに、僕はグッとくるのである。

死刑制度改革案

僕は死刑制度に賛成だ。理由は単純であり、死刑判決を下されるような奴を生かしておく必要性がないからだ。遺族感情云々など、正直どうでもいい。遺族感情を争点にすると、天涯孤独な人間なら殺しても死刑にならない、という理屈を持ち出されかねない。

我々は、人間に住処を奪われたために腹を空かし、山を降りて人間を襲ってしまった獣でさえ、問答無用で射殺する。ならば、利己的な理由で人間を襲ったケダモノなど、問答無用で殺害すればいい。それだけの話である。勝谷誠彦氏は「獣(=凶悪犯罪者)に人権はない」が持論だそうだが、まさにその通りだ。人間の皮を被ったケダモノを野に放てば再び人間を襲いかねないし、税金で天寿を全うするまで生かしておく必要性は何一つない。

 

死刑制度反対派の意見は、六つに大別できる。

一つ目は、冤罪で死刑判決が下される危険がある、というものだ。これは確かにあり得るだろう。実際、過去にそういう事例はあるし、今でも冤罪かもしれない死刑囚は存在している。だが、だからといって冤罪の可能性が死刑制度廃止の理由にはならない。

冤罪で死刑判決を下される危険性があるならば、死刑制度を廃止するのではなく、冤罪を根絶する取り組みを推し進めていくべきである。取り調べの可視化、警察・検察と裁判所の相互独立の強化、「疑わしきは罰せず」の徹底化を図るべきなのだ。「冤罪があるかもしれないから死刑制度廃止」というのは、論理の飛躍がある。

 

二つ目は、死刑は残虐だという主張である。この主張をする人は、決まり文句のように、まるでそれが切り札かの如く、「死刑は国家による殺人だ」と述べる。だが、だから何だというのだ。首吊り程度で残虐などと抜かすでない。死刑は国家による殺人? その通りである。当たり前ではないか。それの何が問題なのだ。懲役刑だって、国家による拉致監禁であろう。

 

三つ目は、死刑囚にも人権はあるという主張だ。だが、死刑囚に人権など無い。公共の福祉に反する場合、個人の持つ権利を制限することを、憲法は認めている。そうであるならば、公共の福祉に反する凶悪犯罪者の人権など、剥奪して然るべきである。

 

四つ目は、先進国の多くが死刑制度を廃止している、という主張だ。が、そんなもの知ったことではない。他国と何でもかんでも歩調を合わせればいいという訳ではない。それに、死刑を廃止した国はその代わり、事件現場で被疑者を射殺しているのだ。被疑者を生きたまま確保しようと努める日本の方が、よっぽどマシであろう。

 

五つ目は、死刑執行を刑務官に担わせることへの異議だ。「数分の一の確率で自分が殺した」というストレスを刑務官が負うことを配慮しての意見だろう。この意見は、もちろんよく分かる。だが、それが刑務官の仕事なのだ。死刑制度が存在する日本で刑務官になるからには、その覚悟を背負わねばならない。酷かもしれないが、それが刑務官という職業なのだ。

 

六つ目は、死刑になりたくて人を殺すクズの存在である。これは確かに、どうにかせねばならない。

 

さて、ではいよいよ、僕の考える死刑制度改革案を発表しよう。

それは、死刑執行in武道館である。

文字通り、死刑囚の死刑執行を武道館で開催するのだ。これは盛り上がること必至である。

 

冤罪の可能性がほぼ皆無の死刑囚を、武道館に連行する。武道館を埋め尽くす観客。チケット代は破格の安さ、5万円。武道館のキャパは約14,000人。これだけで、ザッと7億の売り上げである。

さらに、有料チャンネルを開設し、死刑執行を中継する。死刑執行は頻繁にある訳ではないから月額などはなく、死刑執行の時にのみ料金を払うシステムとする。この値段が1万円。視聴率を0.5%と見積もっても、50万人が見るのだ。ザッと、50億の売り上げである。

 

加えて、死刑執行のボタンを押す権利を、一般に販売する。値段は10万円で、応募が複数あれば抽選で決める。そうすれば、人を殺したという罪悪感を刑務官が負うことはない。と同時に、10万円も払って殺人ボタンを押したがる犯罪者予備軍を一斉にリストアップできる。まさに、一石二鳥である。

 

今現在、死刑執行は日本人にとって見たくないもの、目を背けたいものとして認識されている。多くの人間が凶悪犯の死刑を望む一方、自分がその死に関与するのは忌避する。ひっそりと凶悪犯を国に殺してもらい、ニュースや新聞で軽く報じられているのを見て、それで終わりとする。だが、そんなことではダメだ。

死刑執行を公開すれば、死刑の恐ろしさを日本国民全員が共有することとなる。たとえ直接その光景を見なくても、否が応でも生々しい情報が入ってくるだろう。日本で生きている全ての人のためなら、国は凶悪犯を殺害する。この事実を、国民全員が身近なこととして認識するようになる。そうすることで、死刑制度は犯罪の抑止力となり得る。

 

だが、死刑になりたくて人を殺すクズの問題がまだ解決していない。が、これはすぐに解決できる。安楽死を合法化し、安楽死施設を設置すればいいのだ。安楽死の料金は100万円。払えない場合は、生前に献血、死後に臓器提供や解剖に協力すれば、免除とする。そして、施設設置などの諸々の費用は、死刑執行in武道館の収益で賄えばいい。

 

僕のこの死刑制度改革案、いかがであろうか?