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嫌々爺日記

日頃の愚痴か、エンタメ作品の感想か……

疑問・『バケモノの子』

細田守監督長編オリジナル作品第4弾である。僕にとって細田監督のそれまでの作品といえば、文句無しの傑作『時をかける少女』、文句はあれども好きな『サマーウォーズ』『おおかみこどもの雨と雪』、劇場版ONE PIECEの中で一、二を争う傑作にして屈指の問題作『ONE PIECE THE MOVIE オマツリ男爵と秘密の島』という印象であり、つまりは全体的に高評価なのである。だから今作「バケモノの子」の公開時には当然、高校生だった僕はそれなりの期待を抱いて劇場に足を運んだ訳であるが、残念ながら期待を上回る作品ではなかった。一体それは何故か、という疑問は、ある一つのシーンに収斂される。

 

9歳の少年・蓮は、両親の離婚で父親と別れ、その後母親も事故で急死してしまい、一人ぼっちとなる。九太を歓迎しない親戚に引き取られることとなった蓮は、引っ越しの日に逃げ出し、渋谷の街を孤独に彷徨い歩く。夜の渋谷でバケモノ・熊徹と出逢った蓮はバケモノの世界「渋天街」へと迷い込み、そこで九太と名付けられ、熊徹たちバケモノと暮らしていく……。

 

さてこのファンタジー冒険活劇は、リリーフランキー演じる豚のバケモノ・百秋坊と、大泉洋演じる猿のバケモノ・多々良の会話から始まるのだが、この二人(二匹?)がとにかくまあよく喋る。「渋天街」や「バケモノ」など、今作の設定や用語を口頭ですらすらと説明しまくるのだ。映画的表現で物語を説明する手間を省いた手抜き仕様かと思いきや、これがどうやら違うということがやがて分かってくる。というのも、この二人を筆頭に、登場するキャラクター達は皆が皆、上映中ずっと懇切丁寧に状況や心情を説明してくれるのだ。

後に読んだ細田監督のインタビュー曰く、「大事なことをちゃんとセリフで言おうというのも今回のテーマの一つ」であり、要は観客が十二分に映画を楽しむための親切な配慮らしいのだが、これがまあ大きなお世話であり、すこぶる邪魔なのである。

映像としてスクリーンにデカデカと映っている情景を台詞で再度説明したり、イイ感じのBGMを流しながら登場キャラが自分の心情を朗々と語ってくれるのだが、それらは皆、「そんなもん、言われんでも見たら分かるわ!」というものばかりなのだ。台詞抜きで十分伝わるのに、何故もう一度ダメ押しの台詞を用意するのか、甚だ疑問である。 

登場人物の声や表情、台詞、動作、カメラワーク、音楽……。ありとあらゆるものを駆使して世界を映し出すのが映画なのだ。

こんなにたくさん道具がありながら、何故台詞にばかり頼るのか。

「今までそんなんせえへんかったやん!」と、僕は思わず劇場で叫びたくなった。

 

だが、僕の今作に対する期待を打ち砕いたのはそれが原因ではない(では原因は何なのか、については後述)。観客を白痴の集まりだと思っているのであろう過剰なまでの説明台詞のオンパレードは、哀しい哉、ある時期以降の邦画やドラマには氾濫している。正味な話、そんなものには慣れっ子なのだ。それを細田守がするかね? という思いはあったものの、致し方無しと受け入れてしまえば、案外楽しめてしまうものである。

そこは何てったって細田監督。説明的台詞という欠点を補って余りあるほどの映画的魅力を、キッチリと備えているのだ。

 

それは言うまでもなく、アニメーションの素晴らしさである。流石は宮崎駿今敏が去ったあとの日本アニメ業界を牽引する作家だと(主に日テレによって)称される細田監督。リアリティとアニメらしさを兼ね備えたその映像は、うっとりするような美麗さである。

僕らが普段過ごす味気ない日常は、アニメーションで描き出した途端、無性の感動と新鮮な驚きを伴って観る者に迫ってくる。平板な日常をアニメーションとして描写することにより、僕らは日常をいつも以上に日常として意識させられ、その結果、日常に潜む素晴らしさや陰鬱さなどの光と影が、鮮やかに浮かび上がってくるのである。

そしてまた、アニメーションは非日常の世界にリアリティを与えてくれる。実写で描くと些か陳腐な世界を尤もらしく見せ、劇的にドラマティックに変えることがあるのだ。

このアニメーションの二つの利点が、今作では遺憾なく発揮されている。

今作は、「観客にとっての日常・渋谷」「観客にとっての非日常・渋天街」「バケモノ達が渋天街で送る日常」そして、「バケモノ達にとっても非日常の大事件」の四つの世界に大別できる。

この四つを効果的、対比的に描き出すことで、細田監督は観客を、ワクワクする映画世界へと連れて行ってくれるのである。

ではいよいよ、何故僕が今作を評価しないのか説明するために、簡単にストーリーを追っていこう。

 

前述のあらすじの通り、孤独な少年の蓮は、渋谷の夜の街でバケモノの熊徹と出逢い、その後を追っている内に、バケモノの世界「渋天街」へと迷い込む。

渋天街では長老「宗師」の跡目争いが起こっており、熊徹は跡目候補になる条件として「弟子を取ること」を、現長老から課せられていた。

渋天街で蓮と再会した熊徹は、百秋坊や多々良の反対を押し切り、蓮を弟子にする。9歳だった蓮は「九太」と名付けられ、熊徹と九太は共同生活を開始する。
だが事あるごとに熊徹と衝突する九太は、ある日ついに熊徹の元を逃げ出す。九太を探す熊徹は、自分と同じ跡目候補の猪王山と街でばったり遭遇する。

熊徹は「人間を住まわせると心に闇を宿して大変なことになる」と猪王山に忠告され、睨み合いの末二人は対決を始める。

野次馬は皆、猪王山を応援し、その様子を見つめていた九太は、孤立する猪王山と孤独な自分を重ね合わせ、思わず叫ぶのであった。

 

「負けるなっ!」

 

僕の拙い文章では伝わり辛いかもしれないが、九太が「負けるなっ!」と叫ぶこのシーンは極めて感動的であり、一つの山場と言える。劇場で鳥肌が立ったのを覚えている。

 

対決は現宗師の仲裁で中止になるのだが、これを機に、九太は熊徹の弟子になる決意を固めるのであった。

ここから修行パートに突入である。剣術修行に励み、熊徹の身の回りの世話をこなし、修行の旅に出たりと、ウキウキわくわく修行パートは続いていく。

 

漫画などでしばしば省略される修行シーンをしっかりと描写するのは好感が持てるし、やはり見ていて楽しいものである。

 

こうして修行シーンが続いていき、ふと九太の声が野太くなった次の瞬間、九太は成長した17歳の姿になっている。

 

九太と熊徹の過ごした何年もの月日を感じさせる、映像作品ならではのいい演出である。

 

九太はすっかり渋天街で一目置かれる存在となっていた。さて、そんなある日、事件が起こってしまう。九太が渋天街から偶然抜け出し、人間界・渋谷へと8年ぶりに戻ってしまったのだ。九太はそこで、進学校に通う女子高生・楓と出逢う。九太はかつての名前である「蓮」を名乗り、小学校から学校に行っていないことを告白する。やがて楓は九太に勉強を教えるようになり、九太は渋天街と渋谷を行き来するようになる。楓は九太に「高卒認定試験」を受け、大学に進学するよう勧める。

大学に行って学びたいという欲と、熊徹らと共に渋天街で生きたいという気持ちの間で揺れる九太は、ある日、大学進学のために必要な住民票を得ようと区役所へ出向き、父親の現住所を知る。悩みつつも九太が会いに行くと、父親は涙を流して九太を迎えた。

一方、熊徹は九太の寝床から人間の世界の教科書を発見する。熊徹に問い詰められた九太は、「大学に行きたい」と渋天街から逃げ出す。

人間界に戻った九太に、父親は「一緒に暮らそう」と持ち掛けるが、九太は「俺の何を知ってるんだ」と拒絶する。

九太が去ったことで、熊徹はまた元のダメ男に戻ってしまう。そのため、宗師後継者を決める猪王山とのタイマン勝負でも劣勢に追いやられてしまう。

その頃、人間界では九太が自分の心の闇を楓に吐露し、「自分は人間かバケモノか」と悩んでいた。九太は楓に背中を押され、自分自身と向き合うために再び渋天街を訪れる。

と、そこではまさに、熊徹が猪王山に強烈な一撃を喰らい、審判にカウントを取られていた!

 

とまあ、正直この辺りのストーリーはもはやどうでもいいので、サクッと説明させて頂きました。

さて、では前置きが随分と長くなりましたが、僕が今作をあまり評価できない原因となるのが、ここからのシーンです。

 

カウントダウンする審判。8カウントを終え、9カウント目をしようとしたその時、我らが九太が現れた。

九太だ! 九太だ! とザワつく観客の波をかき分けていく九太。この間、カウントをストップする審判。そして、依然として倒れたままの熊徹……。

 

はぁっ!? である。猪王山は何も言わないし、何やってんだ審判! カウントしろっ! と怒鳴るセコンドも観客もいない。何故か当然の如く、試合が中断されているのだ。これはいくら何でも駄目である。

冒頭、「宗師たるもの強さ、品格、素行全て一流」といった台詞のあとで熊徹が登場したときは、「コイツの何処が品行方正やねん! 」と思ったものの、その位はご愛嬌だと目を瞑った。だが、流石にこれは容認出来ない。主人公補正で片付けられる範囲を超えた、完全なる熊徹贔屓である。

だが、この時点では未だ、僕の今作に対する印象はプラスマイナスで言うとプラスであった。それがマイナスへと転じたのは、この直後である。

 

観客席の先頭に立ち、大きく息を吸い込んだ九太! 熊徹に対し、何かを叫ぼうとする九太!

 

これは! このシチュエーションで叫ぶ言葉といえば一つしかない。一つしかあり得ない!

「負けるなっ!」

……これである。これしかない。

前半、路上で熊徹と猪王山が対決するシーン。周囲が猪王山ばかり応援し、完全に猪王山ホームの中、孤立し、劣勢の熊徹に対して九太が叫んだ言葉である。

前半のこのシーンとの見事な対句。巧い! 流石は細田監督!

ボクは劇場で膝を打って興奮した。それまでの熊徹贔屓ムードに対するイヤな感じは、一瞬で払拭された。

もはや、この二回目の「負けるなっ!」を聞くためだけに、チケット代1000円を払ったと言っても過言ではない。

そしていよいよ、九太が叫ぶのであった!

 

「何やってんだ馬鹿野郎!」

 

……………?

この瞬間、僕の周囲を流れていた時間が、完全に停止した。

何やってんだ、は我々観客の台詞である。あの状況で九太が放つべき言葉は、どう考えても「負けるなっ!」以外にはありえないのだ。

細田監督ほどの人が、何故この場面で「負けるなっ!」と言わせなかったのか、皆目見当がつかない。細田監督が、思いつかなかった筈はない。では何故か? ……それが全くわからないのだ。

ベタ過ぎる、と思ったのだろうか? 観客の予想の斜め上を行かねば……予想通りの展開では駄目だ。そんなふうに考えたのだろうか?

だとしたら、大間違いだ。観客の予想通りの展開を、完璧なタイミングと演出でビシッと決めることは、中途半端に観客の予想を裏切ることよりも遥かに価値があるのだ。そんなこと、僕のような素人に言われなくとも、細田監督ならば百も承知であろう。では何故、「負けるなっ!」と言わせなかったのか……。何度も言うが、全くわからない。謎だ。デッカいクエスチョンマークである。

疑問符が僕の頭を満たし、踊り狂っている間も、スクリーンでは物語が進行している。

だがこの時点で、僕はストーリーなどどうでもよくなっていた。

この後なんだかんだで熊徹は勝利し、偉大な父・猪王山の敗北にショックを受けた一郎彦が心の闇を爆発させて大暴れ。バケモノ達は大混乱。実は一郎彦は人間だった‼︎ ……という風に物語が加速していくのだが、もうそんな事はどうでもいい。このクライマックスに関しても言いたい事はややあるが、そんなものは大したことではない。

今作「バケモノの子」の最大の問題点は、九太が闘技場で「負けるなっ!」と叫ばなかったこと、この一点に尽きる。このシーンのせいで、今迄の数々の良い場面や演出も、数々の悪しき場面や演出も、そしてこのシーンの後の展開も、全てが、何もかも完全に、雲散霧消してしまったのである。

 

こうして、停止した僕の時間が再び動き出すことはなく、やがて『バケモノの子』は幕を閉じた。

Mr.ChildrenのStarting Overという曲に乗ってエンドロールが流れ出し、ふっと空気の緩んだ劇場内を、様々な音が充たし始める。薄闇の中早々に立ち去る観客の足音。恋人や友人と感想を囁き合う声。上映中に食べ切れなかったポップコーンをここぞとばかりに食べる音。だが、それらを掻き消すようにして僕の耳に届いていたのは、九太が闘技場で放つ筈であった「負けるなっ!」という叫び声の、虚しい残響であった。