嫌々爺日記

日頃の愚痴か、エンタメ作品の感想か……

黙祷の重み

3月11日に、僕は黙祷を捧げない。東日本大震災で亡くなった人の中に、僕の知っている人はいないからだ。だが日本では、日本人は3月11日に当然黙祷を捧げる筈だ、という空気が存在する。黙祷を捧げない者は心が無く、非国民かのような空気が、依然として存在する。

災害で亡くなった面識のない者に黙祷を捧げられる人が、僕には理解出来ない。悪いとは言わないが、なぜ黙祷を捧げられるのかが、分からない。黙祷の最中、一体何を考えているのだろうか。

 

沈黙の中でひたすら死者を弔い、死者に対する自分の声を聞く時間が、黙祷である。愛する人の死を嘆き、その人との思い出を慈しみ、その人と出逢えたことを感謝し、その人との別れを悲しむ。黙祷とは須らくそういう時間であるべきだと、僕は思う。

では、犠牲者の名前も顔も知らない状態で、どのように黙祷を捧げるというのだろうか。

 

例外的に、戦死した先祖に黙祷を捧げるというのは理解出来る。名前や顔を知らなくとも、「戦争によって命を奪われた日本人の死屍累々の上に今の日本がある」というのは事実であり、日本に住む者としてその死に感謝し、黙祷を捧げるというのは、至極当然の理屈であろう。

 

だが、災害は違う。日本で起こり、大勢の人が亡くなった痛ましい災害であろうと、その犠牲者が知らない人ばかりならば、黙祷を捧げようがないと僕は思うのだ。

 

意地悪いことを言うが、犠牲者の中に知っている人がいないのに3月11日に黙祷を捧げる人は、1月17日にも黙祷を捧げるのだろうか。9月14日はどうだろうか。5月26日は? 6月3日は? 9月27日は? 10月4日は? 12月17日は?

これらは全て、1980年以降、死者の出た災害が日本で起きた日付である。3月11日に黙祷を捧げる人は、これらの日にも黙祷を捧げているのだろうか。恐らく、捧げていないだろう。何故なら、覚えていないからだ。何故覚えていないのか? それは、死者数がそれほど多くないからだ。

 

もう一つ意地悪いことを言うと、日本以外の国で起きた災害の死者にも、きちんと黙祷を捧げているのだろうか。日本人の死を弔うように、外国人の死も弔っているのだろうか。

 

大勢の日本人が死んだ災害だから、黙祷を捧げる。この考え方は、危険である。

まあ、「外国人の死はどうでもいい。同じ日本人の死は悲しい」というのは僕には理解出来ないが、まだ百歩譲っていいとしよう。

だが、大勢死んだから黙祷を捧げるというのは、間違った考えだ。

ニュースで「この災害の死者は1万人です」という風に報じられるため我々は勘違いしそうになるが、1万人が死ぬという出来事が1件起きたのではない。1人の人間が死ぬという悲惨な出来事が、1万件起きたのである。

死者数によって黙祷を捧げている人は、死者を悼んでいるようで、人の死を軽んじてしまっている。

 

犠牲者は知らない人ばかりだが、ニュースで悲惨な映像も見たし、理屈ではなく、3月11日には黙祷を捧げたくなるのだ。その思いで黙祷を捧げる人を、僕は否定しない。

だが、日本人なら3月11日に黙祷を捧げるべきだ、と主張する人は、毎日誰かに黙祷を捧げるべきである。毎日毎日、日本の何処かで同じ日本人が、病気で、事件で、事故で、--東日本大震災で無念の死を遂げた人同様--無念の死を遂げているのだ。数の問題ではないのなら、その日本人のために、毎日毎日黙祷を捧げるべきである。