嫌々爺日記

日頃の愚痴か、エンタメ作品の感想か……

「命の授業」という名の実験

1990年7月、大阪府豊能町立東能勢小学校4年生の担任を受け持っていた黒田恭史先生は、「生徒全員で豚を飼い、最終的にその豚を食べることで、食というものを見直そう」と考え、「命の授業」と題して、実際に体重30kgのオス豚をクラスで飼い始めた。生徒達はその豚に「Pちゃん」と名付け、大切に育てることとなった。

生徒達は保護者や学校の協力を得ながら、苦労してPちゃんを育て続けた。休み時間には一緒に遊んだ。5年生の9月頃からはテレビカメラが取材に入るようになった。彼らが6年生になった頃には、Pちゃんは300kgにまで成長していた。

そして、生徒達の卒業が一ヶ月後に迫ったある日、黒田先生は生徒達に言った。

「Pちゃんを食べよう」

だが、3年近く育ててきたPちゃんを実際に食べるのは、生徒達にはなかなか苦しい。そこで生徒達は、話し合いをすることに。

「自分達では食べられない」「食肉センターにも送りたくない」「農場などで飼って貰うのは、お金が掛かるため不可能」となり、生徒達が出した結論は「後輩の新4年生に引き継ぐ」というものだった。

しかし、この結論に異議を唱える保護者達がいた。曰く、「新4年生が卒業するときにまた同じ問題に直面する」「300kgまで成長してしまった豚を4年生にいきなり飼育させるのは危険」

これを受け、再度話し合いが設けられる。様々な意見が出たが、結局「食肉センターに送る」か「下級生に引き継ぐ」かの二択に絞られ、生徒達は決断を迫られた。

生徒達の出した結論は、下級生に引き継いで貰う方向で進め、どうしても無理な場合は食肉センターに持っていく。最後の決定権は黒田先生にあるというものだった。そして黒田先生の出した結論は、「食肉センターに送る」であった。

黒田先生は当時、「どうしてPちゃんを食肉センターに送らねばならないのか」という生徒の問いに、「今はわからない。ごめんね」と答えている。

 そしてお別れの日。食肉センター行きのトラックにPちゃんを乗せるのを手伝う生徒達。抵抗するPちゃん。必死で乗せようとする生徒達。猛然と抵抗するPちゃん。泣き叫ぶ生徒も現れる中、どうにかPちゃんはトラックに乗せられ、食肉センターへと送られていったのであった。

加工されたPちゃん。ある者は笑顔で食べ、ある者は泣きながら食べ、ある者は食べられなかった。

のちに、黒田先生はこの「命の授業」を振り返ってこう言った。

「良かったのか悪かったのか、よくわからないところもあるんですけど、ただひとつだけ言えることは……。一生懸命だったということは言えますね」

その後、この「命の授業」はフジテレビでドキュメンタリーとして放映され、動物愛護映画コンクール、内閣総理大臣賞、ギャラクシー賞などを受賞した。そして黒田先生は、佛教大学専任講師,助教授,准教授,教授を経て、2017年現在,京都教育大学教授を務めている。

 

以上、確認できた範囲で事実を列挙していった。事実誤認は多分ないはずです。

さて、では僕の感想を述べていきます。まあ本稿のタイトルから察しはつくと思いますが、まず始めに、頭おかしいんじゃねえの!?というのが正直なところであります。以下、そう思う理由です。

 

豚肉ランドというサイトによると、食肉用の豚の出荷時期は、生後180日、体重105kgである。他のサイトなども調べてみたが、やはり食用の豚は100kg前後で出荷されている。ところがPちゃんは、3年近く飼育され、300kgまで成長している。これはどういうことなのか。

食肉教育というなら、きちんと計画的に正規の時期に食べるべきだ。何故、300kgに育つまで、3年弱も育てたのだろうか。僕は食肉の専門知識はないため、もしかしたらPちゃんの品種の場合、300kgまで成長させる意味や必要性があったのかもしれない。

ただ、この黒田先生の人格を考えると、ただ単に「命の授業を終えるのは卒業直前の方が盛り上がる」と考えていただけではないか、と思ってしまう。何故ならこの黒田先生は、思いつきで行動し、深く物事を考えられない愚か者だからである。

 

黒田先生は、家畜とペットを混同している。

Pちゃんなどと名前を付けてしまい、休み時間にはその背中に跨って遊んだりすれば、生徒達はPちゃんを「人間が生きるため、食べるために命を頂く家畜」としてではなく、「人間とともに暮らす可愛いペット」として認識してしまう。

もちろん畜産家の中には、家畜に名前をつけている人もいる。しかし、彼らはプロだ。名前を付け、愛情を注いで育てても、家畜をペットとしては認識しない。 だが、小学4〜6年生がその区別を付けられる筈がない。

そんな想像すら、黒田先生は出来ないのである。だから、安易に名前を付けさせてしまう。

 

さらに、生徒達が話し合いの末「下級生にPちゃんを託す」と結論を出せば、それを受け入れる。自分のクラスで勝手に始めた豚の飼育を、「やっぱり可哀想だから食べられない」と生徒達に言われたからといって、無関係の下級生に押し付けようとするのだ。そして保護者から異論が出れば、また生徒達に話し合いをさせる。馬鹿か。自分の頭で考えろ。 

 

そして酷いのが、「どうしてPちゃんを食肉センターに送らねばならないのか」という生徒の問いに、「今はわからない。ごめんね」と答えたことと、のちに振り返って「良かったのか悪かったのか、よくわからないところもあるんですけど、ただひとつだけ言えることは……。一生懸命だったということは言えますね」などと言ったことだ。

わからないならば、生徒にそんな「授業」を行うな。「一生懸命だったということは言えますね」だと? だから何だ? 黒田先生の一生懸命さなど、どうでもいい。豚を飼育して食べるなどということを、小学生相手に、「わからない」まま、教師である自分の中で結論や確固たる信念もないまま、「やってみよう」という軽い気持ちだけでやってしまったことが大問題なのだ。

学校や保護者がこれを何故容認したのか、甚だ疑問でならない。

 

しかも、テレビカメラを入れては駄目だろう。小学生とはいえ、テレビカメラを向けられた状態ではありのままの姿は晒け出さない。本音で語らうのが重要なこの「命の授業」を、テレビカメラで映してもいいと考えた黒田先生の思考がよく分からない。

 

「命の授業」の目的は、「現代人は、加工された肉も元々は生き物だったという実感を抱くことなく、ただの食べ物として食べている。豚肉はパックに入ったお肉。豚という生き物とは結び付かない。それでは命の重みが感じられない。だから皆で豚を飼い、その命を頂くことで、それを実感しよう」というものだった。

だが実際には、「私たちが育てたPちゃんを生かすか殺すか」という問題になってしまった。生徒達は、「動物の命を奪って生きている」「我々が口にする食べ物も生き物であり、我々はその命を頂いている」という普遍的な人間の業を実感するのではなく、「Pちゃん可哀想。Pちゃんは食べたくない」という個人的感情論に陥ってしまった。

当たり前である。こんな思い付きの行き当たりばったりなやり方では、そうなるに決まっている。誰の目にも明らかだ。だが、黒田先生はそれをしてしまった。

 

僕は思う。「命の授業」とは、有名になりたかった黒田恭史氏が、豚と生徒達を使って行った売名実験である、と。