嫌々爺日記

日頃の愚痴か、エンタメ作品の感想か……

愛か狂気か・『ジャズ大名』『セッション』

『ラ・ラ・ランド』を観た。評判は賛否両論に別れているらしく、僕も、ミュージカルだからという理由では片付けられない「細部の曖昧さ」が気になったものの、結論としてはやはり面白かった。

 

僕はチャゼル監督の前作『セッション』も劇場で観たのだが、総合的な面白さでは『ラ・ラ・ランド』が上、一瞬の爆発力では『セッション』が上であった。

『セッション』を観た僕が感情を爆発させたのは、観た方なら分かると思うが、ラスト9分19秒の演奏シーンである。というかまあ、『セッション』の宣伝文句が「ラスト9分19秒--映画史が塗り替えられる」でしたからね。

 

(余談だが、映画にしろ小説にしろ、この「衝撃のラスト」推し、やめて頂きたい。ずっとストレートを打ってきている相手が突然アッパーを浴びせてくるからこそ、脳がクラクラッと揺れ、ノックアウトされるのである。試合前に「3発ストレート放ってからのアッパーがオレの得意技なんすよ」と相手に教えるボクサーが、一体何処にいるというのだ)

 

閑話休題、さて本題。映画『セッション』は、原題を『Whiplash』という。意味は「鞭で打つこと/ギョッとすること」であり、映画を観たあとでは、言い得て妙なタイトルだと唸らされるのだが、これを何故『セッション』という邦題に変えてしまったのだろうか。だってこの映画、全然セッションしていないのだ。

 

若手ジャズドラマー志望・ニーマン君は、名門音大に入学する。彼はJ.K.シモンズ演じる鬼ジャズ先生・フレッチャーから、「うちのバンドへおいで」と誘われ、練習に参加することに。

だが、その練習はまさに地獄。フレッチャーは、ハートマン軍曹も真っ青になるほどのありとあらゆる罵倒を、バンドメンバーに浴びせ続けるのだ。もちろん、初参加のニーマン君もその洗礼をバッチリ受けることとなる。

フレッチャーに「Not My Fuckin' Tempo!」と怒鳴り散らされ、椅子を投げられ、ビンタまでも喰らったニーマン君は、必死で、もう超必死で、それこそ手から血が出てもめげずに、ドラムを叩き続ける。

 

ジャズ関係者、ジャズ愛好家は、こんなものはジャズではない、愛がないと批判している。その通りだ。

『セッション』は、『ジャズ版・巨人の星なのである。「俺の理想のテンポと違う!」とフレッチャーに激怒され、ニーマン君は壊れた玩具のようにドラムを高速で叩き続けるのだが、これは差し詰め星飛雄馬の大リーグボール養成ギプスだ。合理性やリアリティは二の次で、インパクト重視である。「そんなギプスでちゃんと筋肉付くの? もっと効果的な筋トレ方法ないの?」という指摘は無意味であり、高校生がガッチガチのギプスを付けられ、満足にご飯も食べられず苦しむという強烈な絵面にこそ、意味がある。

『セッション』も同様であり、僕のような素人でさえ「そんなアホみたいにドラム叩かなアカンの?」と思ってしまうが、これでいいのだ。J.K.シモンズに怒鳴られた白人の若者ドラマーが、半ベソで狂ったようにドラムを叩く。この絵面こそが面白いのである。

 

 ニーマン君はフレッチャーにその腕を認められていく一方、俗的な価値観を持った親戚からはジャズを軽視され、鬱屈とした気持ちを募らせていく。フレッチャーが自分より下手なドラマーを褒めたことに腹を立て、ニーマン君はますます狂ったようにドラムに打ち込み、ドラムのために恋人とも別れる。そんな頑張りが認められたのか、ニーマン君は次回のコンペティションのメンバーに選ばれる。

だが、迎えたコンペティション当日。会場に向かうニーマン君は交通事故に巻き込まれ、血塗れの大怪我を負ってしまう。ニーマン君はどうにか会場に辿り着き演奏を遂げようとするが、怪我のせいでその演奏は惨憺たるものであった。フレッチャーはニーマン君に「お前は終わりだ」と告げる。ついに堪忍袋の尾が切れたニーマン君はフレッチャーに殴りかかり、退学処分を受けてしまう。

その後ニーマン君は匿名でフレッチャーの体罰を告発し、結果、フレッチャーは音楽学校を追いやられた。

数ヶ月後、穏やかだが物足りない生活を送っていたニーマン君は、ジャズクラブでピアノを弾くフレッチャーに遭遇する。フレッチャーとニーマン君はそこで初めて、酒を酌み交わす。フレッチャーはかつての鬼のような表情とは打って変わり、柔和な態度でニーマン君に語る。

「誰かはわからない密告者のせいで、自分は学校を追いやられてしまった。だが私が学生を殴ったのは、彼らにジャズ界の伝説になってほしいと願っていたからだ」「生ぬるい演奏を上出来だと褒め、彼らの才能を潰すことのほうが悲劇だ」

そしてフレッチャーは、「今度開催される権威あるジャズフェスティバルで自分が指揮棒を振るうこと、そのバンドのドラマーをニーマン君に務めて欲しいと思っていること、曲目、曲順は、ニーマン君在籍時のバンドと同じであること」を告げた。ニーマン君は悩んだ末、この誘いを引き受ける。

振った恋人に「見に来て欲しい」と連絡したニーマン君だったが、彼女には既に新しい恋人がいた。

そしてフェスティバル当日。演奏が始まる寸前、フレッチャーがニーマン君に冷たく言い放つ。

「知ってるぞ、密告者はお前だな」

そして始まった曲は、ニーマン君が聞かされていた「Whiplash」ではなく、「Upswingin'」という全く別の曲だった。ニーマン君は「Upswingin'」の楽譜を持っていない。何とかアドリブで付いていこうとするが、そんなことが出来る筈もなく、ニーマン君は酷いドラムを叩く羽目になる。フェスティバルにはスカウトマンらジャズ関係者が多く集っており、そこでの致命的なミスは、ジャズマン生命の終わりを意味している。

希望を抱いて名門音楽学校に入り、恋人を捨ててまで一流のジャズドラマーを目指したが、挫折し、情熱を失ったニーマン君。今回偶然訪れた再チャンスを掴もうと、新たな希望を抱いたニーマン君。その希望はたった今、無惨にも潰えた。フレッチャーの手によって、故意に。茫然、唖然、呆然。

フレッチャーは、ニーマン君が密告者だと知っていたのだ。フレッチャーはそんなニーマン君が許さず、自分が指揮を振るうステージを台無しにしてまで、彼に復讐をしようとした。そして、その復讐は遂げられた。

ステージを去るニーマン君。舞台袖では、父親が待っていた。「お前はよくやった」と父親に抱き締められるニーマン君。が、突如として彼は踵を返し、ステージへと戻っていく。

そして、ラスト9分19秒が始まる。

戻ってきたニーマンにちらと目を向けたフレッチャーが客席に向かって「次はゆったりした曲を」と告げた瞬間、ニーマンがドラマを叩き始める。ゆったりではなく、猛烈なテンポで炸裂するドラム。目を見張る他の奏者達。フレッチャーはニーマンに近付き、「目玉を抉るぞ!」と激怒するが、ニーマンはスティックでシンバルを叩き付け、それを跳ね除ける。

そしてニーマンの合図によって、演奏が始まる。この瞬間バンドの指揮棒を振るっていたのは、間違いなくニーマンである。曲は、ジャズのスタンダードナンバー「Caravan」。演奏が始まってしまった手前、フレッチャーは指揮をせざるを得なくなるが、「お前を殺す」とニーマンに囁くことは忘れない。

しかし、フレッチャーは演奏の途中で気付く。ニーマンのドラムに狂気が宿っていることを。それに引き摺られ、バンド全体が格別の演奏をしてしまっていることを。ニーマンへの憎しみとニーマンのドラムへの感嘆を同時に抱くフレッチャー。そんなフレッチャーの表情は、いつしか歓喜に満ちたものとなっている。

そして最高の状態のまま、フレッチャーは「Caravan」の演奏を終える。と思いきや、フレッチャーの指揮を無視し、ニーマンはドラムを叩き続ける。ニーマンのドラムソロの始まりである。

恍惚の表情から一転、怪訝な顔でニーマンに近付くフレッチャー。「僕が合図する!」と告げるニーマン。ニーマンを見つめ、フレッチャーは言葉を飲み込む。

ニーマンは、ドラムを叩き続ける。叩く。叩く。叩く。叩く。叩く。叩く。叩く。叩く。観客に対して怒濤のごとく押し寄せるドラムの音。 

フレッチャーはニーマンの目の前で頷きつつ、手振りで指示を出す。あまりにも凄まじいニーマンのドラムによって倒れかけたシンバルを、フレッチャーが無言で素早く立て直す。

そして、ニーマンのドラムが極限まで達した一瞬、スクリーンは無音になり、ニーマンとフレッチャーは目を合わせる。頷くフレッチャー。薄く笑みを浮かべるニーマン。再びスクリーンに音が戻り、ニーマンの鬼気迫るドラムを管楽器が追従し始めた瞬間、スクリーンは暗転し、エンドロールが始まる。

 

先ほど『セッション』は『巨人の星』だと述べたが、同時にスティーブン・キングの名作小説『シャイニング』でもある。
『シャイニング』は、心に多少の闇を抱えた男が、幽霊ホテルと酒によって狂人になっていく過程を描いた、ホラー小説の金字塔だ。

一見真面目なジャズ映画に見える『セッション』も実はジャズ映画ではなく、『シャイニング』同様、一人の青年が狂気の渦に飲み込まれていく過程を描いた映画である。

フレッチャーは、「一流のジャズミュージシャンを輩出するために行き過ぎた指導をしてしまうものの、ジャズのことは愛して止まない、愛に満ちた人物」などではない。ニーマン君を狂気という名の深淵へ引き摺り込む、紛うことなき狂人だ。星一徹よりよっぽど酷い、ホテルに棲みつく幽霊だ。彼にも、「Caravan」の後のドラムソロにも、愛はない。あるのは狂気だけだ。だが、それもいいではないか。ニーマンの最後の笑顔を見ると、そう思わされてしまう。

 

『セッション』のラストの演奏は、狂人だけが到達し、理解することの出来る、狂気に満ちた対話である。

 

一方、真面目なジャズ映画でないように見えて、実はジャズの愉しさを強烈に味わわせる作品もある。「原作・筒井康隆/監督・岡本喜八」の1986年公開映画、ジャズ大名である。

『セッション』の感想に文字数を割きすぎたため、『ジャズ大名』のストーリーや感想は割愛するが、こちらも素晴らしい傑作である。筒井康隆の原作小説を超えている(テーマが音楽である以上やむを得ないが)。

ジャズ大名』のラストシーンも、『セッション』同様、ジャズ演奏である。が、こちらの演奏は愛に満ちている。これはジャズと言えるのか、と思うような楽器や道具が登場するが、そんなことは些細なことである。ジャズ大名』という作品の魂こそ、ジャズなのだ。

 

愛か狂気か。対照的な二作品ですが、お暇なときにでも是非、併せてご覧されたし。